ななついろ★ドロップスの「屋根の上」

 この話ってしたことあったかしら。ななついろドロップスに出てくる、「屋根の上」っていう言葉が好きなのね。


 すももちゃんの家の二階にはベランダのようなスペースがあって、それが一階部分の、庇だか家屋だかの上に張り出している。それをすももちゃんは幼い頃から「屋根の上」と言いならわしているらしくて、高校生になった今もそう呼んでいるという、そんな言葉だ。

 子供がものごとに対して独自の呼び方を作ることはままあるものだし、そのベランダが「屋根の上」にあるように見えるのもとてもよくわかる話。
 そしてその呼び名がごく自然にユキちゃんとの会話の中で用いられる辺り、今のすももちゃんの意識には、むかし「屋根の上」でボール遊びをご両親やナコちゃん?としていた頃と、ある種の連続性があるんだなあ、ということが思われる。これは今のすももちゃんが幼いということを言っているのでは当然なくて、すももちゃんはもちろん今は高校生なのだけれど、すももちゃんの意識の中には、幼い頃「屋根の上」で遊んでいた頃と今についての一種の同一性/連続性があるのだなあと、そういうことなのですが。


 でもこれは、例えばすももちゃんがそのベランダっぽい空間を単に「ベランダ」と呼ぶよりもそちらの呼び方の方がいいよねという話ではないし、むろんその逆のことを言いたいわけではない。多分私はこれから、なんですももちゃんの「屋根の上」っていう言い方を宝物みたいに思うのかな、って話をしたいのだよね。


 唐突なことを言い出すと、例えば、今朝歩いた道のかたわらにあるたんぽぽの葉の形なんてものは、あまりに些細な、憶えるに値しないことだろう、きっと。だけどそういうものが寄り集まることで物理的な意味での今この瞬間ができている、ということも事実ではある。
 むろんたんぽぽの葉の形を憶えていられればいいよねということじゃない。 そうした些細なものごと、ディティルは、結局のところ言葉によって全部すくいあげることは出来ない代物だし、捨象されて当然な代物だとも思う。ことばっていうのは多分本来、いいも悪いもなくそういうものだ。雲の形、空気の匂い、草花の細かな形やその動き、全部それは愛すべきものかもしれないけれど、どうしたってことばや認識によって捉え尽くすことはできないものでもある。


 ただ、例えばある朝、随分変わった形のたんぽぽの葉っぱが道端にあって、それを見たとする。それが心の片隅にひっかかる。たんぽぽの葉を見たその時点か、それとももっと後か、なにかのはずみにそれが意識の上の方にのぼってきて、そこで初めてたんぽぽの葉の形は、認識されたものになる。ああこの変な葉っぱはなんだろう、とか、今日もこの葉っぱは健在だな、とか、そういえばあの葉っぱはどうしただろう、とか。

 あまりにもたくさんある、認識されることもない些細なものごと達の中で、そんな風に、たまたま「屋根の上」「変なたんぽぽの葉」のようなものごとを見つけられることがある。本当はね、たんぽぽの葉以外にも憶えているべきもの、見るべきものって沢山あって然るべきだったんじゃないかとも思う。だけどたんぽぽの葉のことしか憶えてない。でもだからこそ、その葉のことが印象深く、大切なことのように思えることってあるんじゃないか。それは錯覚とか、勝手な思い入れに過ぎないのかもしれないけれど。



 @yukimura_anzu氏のこういう言葉がある。

"作品への言及は構成要素の個別や全体の在りかたよりも偶然の引っかき傷みたいなところに触れてゆくほうが好きで、そういう触感を得たとき宝物を見つけた気持ちになります。いつだってそうできるわけじゃないし、そればっか探してると窮屈になるけど。"
(11/5/6 https://twitter.com/yukimura_anzu/status/66379279595880448)

 今してる話とは、氏が意図されている文脈はおそらくだいぶ違うのだけれど、今どういう風に言えばいいのかなと言葉を探していて、ふとその「ひっかき傷」っていう言葉が浮かんできたんですね。こういう引用の仕方は失礼で不誠実かもしれないんだけど、ただ氏の言葉からヒントを得たのは紛れも無い事実なので、あえてこういう形で引用させていただきたいと思う。


 この言葉を思い出した時、思い出ってひっかき傷みたいなものかもしれない、と思ったんですよ。むかし住んでいた家の、まっさらな板壁ってあまり記憶に残らないものかもしれないけど、そこに偶然できたひっかき傷が例えばあった時、そればっかり憶えてることってあるだろうと思う。
 その時さ、ひっかき傷の記憶だけで壁のことを語るのって本当はおかしくて、きっとその壁にはひっかき傷以外にも色んなへこみやくぼみがあっただろうと思うし、それを忘れてしまうのは、何だかなあと思う。でもやっぱりそのひっかき傷もとても大切なものだと思うし、それを大事に思うのも間違っちゃいないんじゃないか。


 むろんメタで下世話な話をすれば、すももちゃんの「屋根の上」っていう言葉は、まさか市川環氏が意図せずに用いた表現とも思えないし、まあ演出上の意図があっての言葉なんでしょう。そういう意味ではそれは「偶然」でもないし「ひっかき傷」ではない。絵画に描き込まれた意味あるシンボルのようなものなんだろうとも思う。
 でも別にそのこととは関係なく、「屋根の上」っていう言葉はすももちゃんの過ごしてきた十数年の時間に偶然ついた、一つのひっかき傷のようなものでもある。それは幼い頃のすももちゃんと、今のすももちゃんと、ひょっとしたら未来につわぶきくんと過ごす時間とを繋ぐひっかき傷で、例えそれがただの思い出の一つに過ぎないとしても、同時に「屋根の上」というその言葉の中には、すももちゃんの過ごしてきた/見てきた時間や世界の広がりが映しだされているのも確かなのではないかと思う。

 だからそれは「ひっかき傷」で、思い出の中で目を引く、奇妙な形をしたたんぽぽの葉のようなものなんじゃないのか。それがあのときあったことの全てってわけではない、もちろん。だけどそれを目印にして、あのときに触れることのできる、あるいは例えば不完全な栞のような、そんなもののように思う。



 初めて体験版でななついろ★ドロップスをやったときからぐっと来てたところだったんですけどね*1。今日散歩をしていて、なんだか自分の中である程度ながら納得のゆく言葉が見つかったので、表に出してみた感じです。どうだろうねえ。正しいのかそうでないのかは、自分でもよく分からないんだけど。

*1:我ながら、一体いつの話だろう。いやいいんだけどさ