伊58さんの話

 最近艦これRPGをプレイする機会があって、そのための勉強……というほどでもないにしても、「駆逐艦」「軽巡洋艦」ってそもそもなんなのかを知るために原作の艦これの方を始めたのだけれど。最近艦隊に来てくれた伊58さんの紹介文がとてもよかったのです。

"最初から頑張って最後まで戦ったんだよ。苦しくなってからだって、凄い重巡だって仕留めたし!任務を全うして、全てが終わった後、無事に呉の母港に帰ったんだ。"
(伊58さんの図鑑紹介文より)

 文章だけより、声と一緒に聞くのが圧倒的によいと思う。


 今ここにいる伊58さんと呼ばれる女の子自身が、ゆきてかえりしものがたり、めいた響きをもって語られる「その」旅をしたわけではない。ただ、彼女の中にはその旅をした艦の記憶があるらしい。その時感じたことや思ったこと、見たものや聞いたもの、触れたものが、彼女の中になにか不思議な記憶として残っているのだと。
 けれど、それについてつまびらかに/客観的に語ることは難しいし、語ったとして、その内容に責任を持つこともまた難しい。それは彼女自身が体験したことではないからだ。責任、というか、語る権利、という言い方をしてもいいかもしれないけれど。

 全てが終わった後、無事に呉の母港に帰ったんだ。そんな風に語られた「その出来事」は、確かにあった出来事なのだけれど、そこに何があったかが微に入り細にわたって語られるわけではない。でも彼女の中には、「その出来事」が確かに眠っている。それは解剖的に紐解けるようなものではないのだが、それでも確かにそこに存在している。

 できごとを、ある「人間的な」――これは大概バズワードなんだけど、たとえば「神話的な」という言葉と似たような意味として――次元において解釈しなおすことが、擬人化のひとつの機能だろう。そこでは真実性は担保されず、ある種のディフォルメが行われる。記憶というのは体験や事実そのものではないのと、同じことだ。だからここでは、伊58さん自身の目から見た「その出来事」の記憶は、ある種の抽象化をされ、だけど単純化をされることなく、ただそこに確かにあった出来事に対する、彼女自身の眼差しを以って語られている。そこで語られた「その出来事」には、だから、「伊58さんと呼ばれている彼女が語った」という枕詞がついている。

 そして彼女の言葉が、呉の母港に帰ったんだ、という言葉でくくられていることが、「その出来事」をある種の優しさでもって包み込んでいる。苦しかったことも嬉しかったことも、切り捨てられるわけではないのだけれど、それは「苦しさ」「嬉しさ」そのものを語る形ではなされない。「その出来事」に対する、この子の持つそうした深い眼差しが、とてもぐっと来るのだよね。
 強烈なイメージを喚起すると同時に、遠慮深く慎重でもある、そしてなにより優しい――まさに名紹介だと思う。