ヤキモチストリーム

 ヤキモチってひとくちに言ったところで、どうしたってそのありようはひと通りではないし、劇的な気持ちばかりとは限らない。自分の傍に居て欲しいとか、自分のことだけ見ていて欲しいとかって気持ちは、相手がどれほど自分の傍に居てくれそうか、見てくれそうか――そういう予想/期待と押し引きしながら、燃え上がったり、冷や水をかけられてしぼんだりするものだと思われる。
 とぼけた顔してささやかな気持ちを丁寧に描くこの作品の筆致には、好きなところ沢山ありすぎて何ともなのですが、たとえば一つ、ということで。

"ターニャ「……エディンバラで、ターニャと一緒にオヤスミナサイしたの……覚えてる?」
拓海「もちろん覚えてるぞ」
俺がホームステイを初めて、一週間くらい経った頃だっけ。
ちょっとしたきっかけがあって――
それまではあまり打ち解けてくれなかったターニャが、初めて俺を認めてくれた夜のことは忘れない。
ターニャ「……サナのお話、してクレタ
拓海「そうだったな」
あの夜も、ターニャはこんな目で俺を見てた。
ターニャ「『サナ』と、『アマエンボ』が……ターニャが初めて覚えた日本語。『コニチハ』より、先」
言われて、エディンバラでの日々を思い返す。
すごく繊細で甘えんぼなこの子に、俺も沙那を重ねて接していたのかも。
拓海「初めて会ってどうだった? 沙那」
ターニャ「アマエンボ」
即答だった。
「……ターニャと一緒。タクミが言った通りダッタ」"

 言葉の意味や定義なんてのは可塑的なもので、周りの人がその言葉を使うのを聞いたり読んだりする中で作られていくものだ。ターニャさんが初めて覚えた日本語が「サナ」と「アマエンボ」であるということは、だからとても甘やかなことでね。
 その時ターニャさんにとっての日本語の世界は、拓海さんと、アマエンボな妹のサナさんと、"サナさんと同じようにアマエンボな"ターニャさんだけで出来ていた。「アマエンボ」っていうのはその三人のためだけの特別な言葉で、辞書上の定義なんてのは知ったことではなく、ただ拓海さんが見知らぬ妹のサナさんについて語ったその語り口だけが、「アマエンボ」って言葉を定義する全てだった。

 痛いの?って聞かれて初めて泣き出す子供、なんて例を出すまでもなく、言葉は実感よりも先にある。「アマエンボ」って言葉が先にあって、拓海さんによって語られる遠い島国の甘えん坊さんの話を聞きながら、ターニャさんと拓海さんとの間柄は作られていったのだろうと思われて。だからターニャさんにとって沙那さんは、「アマエンボ」としての、いわば先輩みたいな存在だ。ターニャさんは、会ったことないサナさんという女の子の背中を想像しながら、拓海さんへのアマエンボになってったのだろうと。

 ターニャさんは沙那さんをお姉ちゃんみたいと言うのだけれど、実際にはターニャさんは拓海さんと同い年、つまり拓海さんの実妹である沙那さんよりいっこ年上なのである。それも、別にターニャさんは拓海さんがお兄ちゃんみたいとは特に言わないので、「拓海さんとターニャさんは同い年」「拓海さんは沙那さんのお兄ちゃん」「沙那さんはターニャさんのお姉ちゃん」と、何とも込み入った家族関係ということになる。でもそれが妙にしっくり来てしまうのは、例えば沙那さんがターニャさんにとって「アマエンボ」の先輩っていうのもきっとあるのだよね。なんともこそばゆい話です。



 今週末に出るVFBは非常に楽しみにしてます。椿また氏ももじゃすびい氏も全然情報がなくって、一体何者なんだ……状態なので、コメンタリーとかたくさんあるといいな。