夏雪

"だから、お姉ちゃんと自分を呼ぶのも当然なのかもしれない。
なのにどうして、当たり前のはずのその言葉に衝撃を受けているのだろう。
とろけるような、むずがゆいような、とにかくそんな心騒がす甘やかな響きに。"

"夏雪「ありがと。私も葛ちゃんのこと、大好きだよ。ずっとずっと、大好きだった」
葛「それって……僕と会う前から?」
夏雪「うん……どうしてかな。葛ちゃんは、きっとこんな風に可愛くていい子だって思ってたの」
こそばゆくなるような言葉を、訥々と語る夏雪。
「葛ちゃんと違って、私は葛ちゃんが遠くで暮らしていることを知ってたの」
「だからかな……小さな頃から、どんな子だろう、こんな子だったらいいなって、ずっと頭の中で想像してたの。空想上の葛ちゃん……っていうのかな」"

 葛くんにとって夏雪さんは他の何でもなく"夏ねーちゃん"であって、夏雪さんにとって葛くんは"葛ちゃん"でしかありえず、姉とか弟とか大切な人とか愛しい人とかそういうのはぜんぶ後からくっつけた言葉に過ぎない以上、この日の鮮やか甘やかで焦がれるほど眩しかったできごとについても、あれこれの言葉を排してただ「夏雪さんと葛くんが出会った日」としか言い様がなかったように思われる。
 けれど夏雪さんはずっとずっと前から葛くんのことを空想の中で思い描いていて、葛くんもまた年賀状を受け取ったときから見知らぬ従姉のことを思っていたのだから、ほんとうはもっと前から二人は会っていた、とも言えるのか、言えないのか。

"この先。
夏は、何度でもやってくる。"

 唐突に、散文的におかれたこの一言は、けれどどうにも、奇妙に深い印象を残す。
 実際、この作品はいくどとなく巡り来る夏を描いているのだけれど、寄せては返す波のような、その繰り返す夏の訪れの中では、あの時あれがあったから、などといった因果の糸は、ただ曖昧なまどろみの中に溶けてゆくしかないのかもしれない。
 かつてあった神様の男と人間の女の因果が、どうしてか今このとき葛くんと夏雪さんのもとにやって来たことは、何故ともいかにしてとも言いかねることではあった。そのことについて、順序立てて整理するだとか、向かい合って片を付けるだとか、そんな風なことにはならなくて、それはただ夏の湿った宵闇の中に、夢幻めいて唐突に訪れ、そして唐突に去ってゆく。
 変わりゆく町の姿も、過去の因果も、葛くんや夏雪さんに何をどうできるようなことであるわけもないのだが、それでもただ「それ」が過ぎ去っていった手触りだけは、どうにも手のひらの中に残っている。夏っていうのはそんな風に、うんざりするほどに確かにそこに"在る"くせに、どうあっても手のひらに掴むことのできないような季節であるように思う。
 そのとらえどころのないものは、葛くんのにも、夏雪さんのものにもならないのだけれども、それでもその寄せては返す夏の中で、ふたりは確かに互いを求め合って、強く互いを結びつけあっていた/いる。そしてそれ以外のことは、なんとも言い様がない。

"葛「んなわけないけど……夏ねーちゃんは優等生なのに……」
夏雪「それは心外だねぇ……私、真面目なんかじゃないよ?」
「学園は好きだから行ってるだけで……」
葛「そうだったの……?」
夏雪「うん……それに本当に真面目だったら……葛ちゃんのことを好きになってないよ」
葛「じゃ、俺たちは不真面目姉弟ってことか……」
夏雪「そうだねぇ……ふふふっ……」
少しだけ、気持ちが楽になった。
俺は何度、この微笑みに癒されてきたんだろう?"

 葛くんの抱える異様なものへの不安が、葛くんが謹慎させられていることを気遣う夏雪さんによって慰められるというのは、少しずれた成り行きではある。けれどもほんとうに、ただ夏の静かな浜辺にふたり散歩に出かけることだけが美しく愛おしく、それ以外のことは別段なんでもないことだ、どんな経緯も理由も。浜辺を訪れることは、これまで過ごしてきた夏と同じく繰り返してきたことであるけれど、もちろん違うところもあって、でもどこが違ってどこが同じで、などといったことを問うことにはさほどの意味もないというのも、同じことだ。

"夏雪「どうしたの? ……急に元気がなくなったけど……」
葛「げ、元気だよっ」
夏雪「ならいいけど……」
どうして、あんな……。
海へ入っていく後姿を見たとき、俺は永遠に夏ねーちゃんと会えなくなるような予感がした。"

 それで、ほんとこう、こうした、ふと胸をよぎるなにか、を描くのが鮮やかなのよね。リーダの多い言葉とか、丁寧な情景描写なんかがそれを支えているのかな。強烈。