栗原ちひろ"ある小説家をめぐる一冊"

 悪魔交渉人も面白かったけど、本作は六使徒シリーズに匹敵するくらい好き(最上級の賛辞)。
 このタイトルだし、「一人称の使い方が〜」なんて褒め方をするとまるでメタな仕掛けでも褒めてるのかなんて思われそうではあるけれども、いやいやそういう話ではなく。語り部の田中さんの、感傷や妄念の中でする独特の語り口が、なんとも魅力的なのです。

"駄目だ、このままではまた正気を失ってしまう。また呑みこまれてしまう、些々浦の小説世界に。
どうして自分はこんなにも些々浦の世界に入りこみやすいのだろう。
(…)話自体にケチをつけるところは山ほどあるが、妹を探して奇妙な館に入っていく主人公の気持ちは痛いほどにわかってしまう。"(46, 47p)

 切実な感傷に呑みこまれてしまう時、その感情自体にどういう意味や価値があるかは、そもそも問題ではない。妹が大事だから狂おしい気持ちになるんだとかなんだとか、そういう意味付け理由付けは、後から追っかけてくることでしかない。
 感傷は子供の頃に出逢ったナニカのような顔をしていることが多いけれども、だからといってそれが本当に子供の頃に感じたこと、出逢ったものなのかなど分かったものではない。何を語ったってそこには嘘が混じってしまう。折り目正しく感傷に相対することなんて、そもそも不可能であって。

"これは、この原稿の先はどうなるのだろう。主人公が猫だと思っていたものは妹の化身とか、主人公自身の後悔とかそういったものなのだから、基本的には廊下の先、屋敷の奥、主人公の心の深いところにいるものなのだ。書籍版ではそうなっていた。それが後ろにいたら、オチが根幹から変わってしまうではないか。どうするんだ。どうなるんだ。"(50p)

 そこで、醒めた視線、思考を抱えながら、それでいて別段感傷に呑みこまれることを恐れるでもなく突き進んでいく28歳編集者男性田中さんの態度ってのが、こう……なんと言えばいいのかな、危ういし、純粋さ素直さにも見えるし、乱暴で遠慮がないとも言えるかもしれず、渾然一体となったそれが、兎にも角にも魅力的なのです。
 一話*1の些々浦先生が登場する前後のくだりがとても好き。生身の些々浦先生が現れて、怪奇めいた不安がさっと晴れて、彼の見ている場面の色使いは随分変わったはずなのに、当の田中さん本人はしれっと澄ました面で語りを続けている。とはいえそもそも田中さんが猪突猛進している方向自体はいつも何も変わっていないのだから、彼の態度が変わらないのも当然といえば当然だっただろうか。

"「……一緒に、悪いことを」
(…)「……ちょっとくさかったですかね」
「うん」「やっぱり」
あまりの即答に肩を落とす田中の耳に、くすり、という声が届く。
笑い声だ。些々浦の。……本当に? 田中は慌てて顔を上げる。"(87, 88p)

 挙句の果てにコレですよ。クサいセリフで強引に現実の落とし所を作ってしまうのは、ある意味で詐欺みたいなもので、お前それはどうなんだと思う。思うんだけど、そもそもさっきも言ったとおり、感傷を正しく扱うことなんて不可能でもある。だから、「大人」のくせにナイーブで切実な感傷を捨てる気がないのなら、それは確かに理にかなった態度ではあるのだ。些々浦先生も、田中さんにただ素直に騙されて乗っかるわけではない。いや、些々浦先生の子供っぽさもそうじゃないとこも、実に魅力的ですよね。
 THORES柴本による表紙の田中さん像には当初は美形すぎでは感を覚えていたのだけれど、読み終えてみて、この危なっかしくも悪い男ぶりに、なるほどなあと思えるものがありました。でもやっぱり銀縁眼鏡verは見たい。


"「存じております。男女平等」"(200p)

 そんで、するっとこんなん出て来るのがまた良くてですね。家政婦の深山さん、いい味を出しておられます。

*1:話、という数え方が正しいのかどうかは知らないが