おかざき登"リトルアーモリー"1、2巻
良かった。ひたすらに良かった。
"特に理由はないただの冷やかしだったのだが、未世はある商品を見てピーンと閃き、凛と鞠亜に手招きをした。
寄ってきた三人に、未世はごにょごにょと耳打ちをした。
「……なるほど。うん、未世の分は頼まれた」
「あ、じゃあ、わたし、恵那さんを呼んできます……!」
「じゃ、あたしも先輩のところに行ってきますね!」
三人はサッと別行動を始め、未世は愛のところへ一直線に駆けていって、
「先輩! ちょっとこっちに来てください!」
と手をつかんで強引に売店から連れ出した。"(一巻、147p)
何から書こうかとちょっと悩んだんだけど、やっぱりまずこういう距離感が好きなんですよという話からしたいかな。
未世さんが愛さんに感謝を伝えることが前々から計画してたことじゃなくその場の思いつきであることとか、皆してばらばらに売店を冷やかしてる中で、手招きで集合してみたりするとことか。べったりくっついているのではないのです。
"近隣のいくつもの指定防衛校と共同で行われるこの演習は、学校の垣根を超えてチームが編成される。歩哨当番とちがってこちらの編成は本人の意志は一切関係なく、一方的に一枚の紙切れで命じられるのが通例だった。"(一巻、64p)
未世さん達の演習のチームは、例えばスポーツの「チーム」のようなものとは少し違っている。目標を共有してるわけじゃなくて、勝ち負けそのものは演習の目的じゃないし、イクシスへの哨戒や討伐を行うにしても、任務そのものの為にチームを組んでいるわけではない。どっちかというと、学校のクラスとかの方に似ているのかなと思うんですね。未世さん達が集められたことには、彼女達自身の意志は介在していない。あくまで一時の演習のための組分けに過ぎないのだし、実際に先輩組なんかはあくまでそれなりの距離感なわけで。
仲良くなるべきだから、仲良くなった方がいいから仲良くなったわけじゃないし、時にすれ違いつつも相互理解のために努力しましたーみたいな物語でもない。でももちろん、仲良くなったのが単なる偶然、運が良かっただけなのかって聞かれたら、それも違う。
それはまあでも、当たり前の話でさ。たとえば学校のクラスで友達ができたときに「相互理解の為に頑張ったんですか」って聞かれたら困るだろうし、でも「何もしなくても仲良くなれましたか」って聞かれたら、それも違うだろうと感じるだろうと。
いやお前なんも銃の話してないじゃん*1と思われるかもしれないけれども、でも別にこの話って、銃のことと全然関係ないわけではないのかなと思っていて。
そもそも本作の「戦い」に対する態度は非常に注意深いもので、未世さん達の戦いを共同体――「世界」や「国」はもちろんのこと、「街」や「学校」、あるいは「家族」や「チーム」ですら――と結びつけて安易に語るみたいなことは絶対にされない。『何の為に銃を持つのか』みたいなセンスのない問いの立て方もしない。手前勝手な物語を未世さんに押し付けない、本当にそういうとこストイックなんです。
"笑顔は、嫌いではない。自分がしてみるのも、人間のを見るのも。それに、この騒々しさは、なんだかワクワクする。"(二巻、156p)
"「そもそも、この子、タコ焼きは食べて大丈夫なの? ほら、いろいろあるじゃない、犬にタマネギは食べさせちゃダメとか、猫にイカを食べさせると腰を抜かすとか」
「えっ、恵那さん、猫って腰を抜かすことあるんですか……?」
(…)そんな話をしているうちに、イクミが口の中のものをごっくんと飲み込んだ。ずっと笑顔なので、鞠亜が言ったように、表情からタコ焼きの感想を読み取ることはできない。"(二巻、160p)
そうもストイックだからこそ、イクミさんとの交流にも、こうまでも嘘がなくなるわけです。言語というものを知らないイクミさんに未世さんが向き合う時、胡散臭い物語も言葉も押し付けずに、気負いなく手を引いて文化祭に連れて行くのがいい。
未世さん達がイクミさんの頭越しに彼女のことを話してるとき、声自体はイクミさんの耳には入ってるんだけど、意味はほとんど分かってないっていうのも、なんかお姉ちゃんズと小さい妹、みたいなことになってて微笑ましかったりしますね。
二巻の最後に起きた戦いも、いわゆる『熱』さではなく、ひたむきなものとして描かれていたのが好ましかったし、和花先生の独白も好き。本当にどこもかしこも良い作品だったと思うので、シリーズが続いてくれることにはぜひ期待したいところです。プラキットの方にもちょっと手を出してみようかなあと思えてきたけれど、ただプラモデルって全然作ったことない上に不器用なたちなんで普通に失敗しそうな予感しかない……。まあ割とお安いし、お試しで一つくらい買ってみようかしらん。
なお、余談。