金色ラブリッチェ-Golden Time-(4)


 音楽堂でのあの会話も、それに続く理亜さんと央路くんのやり取りも、薄氷を踏むがごとき繊細な言葉選びによって、本当にぎりぎりのところで成り立っているものだ。

シルヴィア「なんていうのかしら……日本はとくにそうじゃない? キラキラ輝いているときが一番だけれど」
「わびさび? 最高のときを過ぎて。いつかそれを懐かしむ日が来て」
「それでもソーマくんと一緒に演奏できたら。それはそれでステキだと思うわ」
マリア「……」
シルヴィア「わたしもソーマ君も、どちらもおばあちゃまになって、わたしはピアノに指がついていかなくなって。ソーマくんは喉どころか、大きな声も出せなくなって」
「それでもソーマくんと一緒に演奏できたら」
「それってとても綺麗な時間だと思うの」

マリア「さっきシルヴィと話したんだ。昨日お前から言われたこと」
「まあ結局、よく分かんなかったんだけど」
「でも、なにかしたくなった」
央路「で、これ?」
マリア「これ」
「お嫁さんへの第一歩」

 シルヴィさんの語る未来図は、実際のところあり得るわけもない話なわけですよ。蓋然性なんか、1%だってありはしない。だけど、シルヴィさんがそれを語る時、それは……どうしたって捨て得ない願いとして、胸に刻みこまれてしまう。


 ここでのシルヴィさんの言葉は、文字面だけ捉えれば、最も綺麗な一瞬(密度) vs 継続するそれなりに綺麗な時間(体積)、みたいな陳腐で空虚な1対立構図に聞こえなくもないけれど、本当のところその中身はまるで違っている。シルヴィさんが言っているのは、その遠い未来のどこまでも綺麗な時間を望む気持ちを胸に抱いている2かどうかという、ただただそれだけだっただろう。

 央路くんが零してしまった、正解などない、答えの分からない問いに迷う理亜さんの手を、シルヴィさんがこんな風に引くことができたのは、シルヴィさん自身が何よりもその未来を願っているから、という以外の理由はなかったのだろう。


 だけどそのただの願いをただの願いのままで保つのは、とても難しい。願いは目的を、目的は手段を生む。そして手段は正しさを問われるものだけれど、でも何をしても何を選んでも"理亜さんが居なくなる"という理不尽な現象の前には、正しさなんて欠片も残りはしない。

 だから、シルヴィさんの歌うような言葉の連なりも、理亜さんの「でも、なにかしたくなった」という言葉も、あと一歩でも具体的なところに踏み込めば壊れてしまうような、本当にぎりぎりの縁で成り立っている。そしてそんな風に、願いが目的にも手段にも結び付けないただの願いのままに保たれていたからこそ、理亜さんは初めて、それがしたいんだ、って言えたんだと思うんです。


 あと、ベッドに横たわる理亜さんの表情がすごくよかった。照れた猫口で央路くんを見上げる瞳も、ちょっと目を逸らしながら口を尖らせるときの眼差しも、無防備な笑顔も、髪が少しだけかかる頬も、何もかも。理亜さんを膝枕してるときのシルヴィさんの柔らかな表情もあわせて、ひどく印象深い。



  1. その二つを比べても何の意味もないし、どちらを選ぶべきかなどという問うても答えなどあるわけがないことは自明なので。

  2. このことをどう表現するかどうかだいぶ悩んだのだけれど、「願う気持ちを胸に抱く」というのはそれなりに悪くない表現だと思っている。たとえば「願う」という能動的な表現にすると、少しずれたニュアンスになってしまう。