金色ラブリッチェ-Golden Time-(5)


 青空の下、緑の草の上で、黒髪の女の子が、いつかの理亜さんに似た笑顔を浮かべている。央路くんがその手を握り、理亜さんがその身体を後ろから抱く。そんな光景を目の当たりにしたときに感じたものは、多分、前作で最後の一枚を見たときに湧き上がってきたものと同じものだったように思われた。

 こみ上げてきたのは、かけがえがないとか、良かったとか、愛おしいとか、あるいは美しいとか、そういう類の思いではない。そういうのは、そこに真理亜さんや理亜さんが居てくれるとき、その結果や意味、価値として、後からついてくる副次的なものに過ぎない。


 たとえば前作の時間軸では、その光景は存在しなかった。今作にしたところで、理亜さんが、あるいは真理亜さんが喪われてしまう未来だってまた当然にあり得ただろう1。というより、蓋然性としてはそちらの方が圧倒的に高かった。

 以前、前作の最後の一枚を見た時に精神がバグった、と書いた。当時の私には、あの時間を望んでしまうこと、願ってしまうことが、正しいことなのか判断ができなかった。なのにどうにもそれを望む気持ちが湧き上がってくることが避けられなくて、それがバグのように思えたというか……どうにも納得ができなかったんですね。


 でも今は、その気持ちを抱いてよかったのだと思っている。たとえ前作をプレイして、あの金色であろうとすることを貫いた日々を受け止めた直後であったとしても、それでも、あの時あの純白の光景を望んでいてよかったんだろうと。

 そうしてよかったんです。



  1. 色々と仄めかしはあったにせよ、結局のところ、神秘の力とか根性の力とか絆の力とか、そうした何かしらの確かな理由があってあの場所に必然的に辿り着けたのだ、という語り口ではなかったように思っている。