ココロが繋ぐ恋標(2)

姫乃「た、卵焼きは、その、挑戦してみたんだけど、全然うまくいかなくて、それは形はまだマシだったんだけど、味が濃すぎて……」
洸希「いやいや、弁当だから、これでいいんだって! やばい、最高すぎる!」
テンションただ上がり1なんですけどー!
姫乃「そ、そんな……だって……私の作る、お弁当なんて……全然……」
日向「……九条さん」
姫乃「は、はいっ!?」
日向「……大丈夫」
「コウ君て、好き嫌いはないし、なにを作っても……どんなに失敗したと思っても、美味しいって食べてくれるから」
「だから、安心して、色んなものを作ってあげてね」
姫乃「う、うん……」
日向「作り慣れないものでも、何度も作れば少しずつ形にはなるから……時間さえかければ、いくらでも上手くなっていくよ」

 お弁当の話で言えば、日向さんのこの言葉は本当に印象深かった。だって一歩間違えたらこの「なにを作っても……どんなに失敗したと思っても」っていう言葉は、洸希さんはちょろいからとか、あるいは美味しくないものを食べさせても問題ないからとか、そんな意味に聞こえかねない。でももちろんそれはそういう意味ではなくて。


 だらだらと野暮な文章になるのは承知で、まずは前提の話をしたい。 最初に注意したいのは、お弁当を作る側が気になるのはそのお弁当が美味しかったかどうかなんだけど、 食べる側がいくら口で美味しいと言ってくれても、それが気遣いから出たお世辞でないという保証はないということだ。

 作る側としては、料理が美味しくなかったらそれを素直に伝えて欲しいという気持ちはあるだろう。 でもいただく側も、相手が心を込めて作ってくれた料理なんだから味覚だけじゃなく心で美味しいって感じるのは止められないし、また仮にちょっとばかり失敗があったって、感謝を込めて美味しいって伝えたくなるのも当然のことだ。日向さんはその気持ちを嬉しく思いつつも甘えたくないから、せめてできる限りの腕と心を込めるのかなと思う。


 でも心を込めるってのはただの比喩で、なにか形あるものを料理に練り込んでるわけじゃない。 受け取る側が作ってくれた人の気持ちを嬉しく思うときに「心が込もってる」と表現するのであって、つまり相手が気持ちを受け取った上で喜んでくれなければ、心を込めたことにはならない。

 だから「心を込める」っていう行為は、 作り手側が心を尽くしてくれてること、受け手側が本当に嬉しく思ってくれていること、 そういう目には見えないし証明もできない相手の気持ちを双方が信じることで成り立つ、一種の共同作業ということになる。 日向さんが「どんなに失敗したと思っても、美味しいって食べてくれるから」という言葉を何恥じることなく口にするためには、 そんな共同作業が洸希さんとの間に成り立っていることを、証明なく、けれど互いに信じていなければならない。



 ――というわけで、長かったけれど、ここまでが前提の話。 その前提を踏まえると、日向さんがこの言葉を姫乃さんに向けていることが、とてもすごいことだと思えるのです。

 先ほども言った通り、この言葉が成り立つためには、お弁当の作り手と受け手の間の一種の共同作業を(それが存在していることを証明できないのを分かった上で、あえて)互いに信じる必要がある。だけど日向さん自身と洸希さんの間のことさえきっと簡単ではないのに、他人である姫乃さんと洸希さんとの間のそれを信じることって、誰にでもできることではないだろう。

 日向さんは姫乃さんに対する好意も共感も持っているだろうけど、それでもやっぱり、姫乃さんのことをさほど深く知っているわけでもない。 だのにこの言葉を口にできるのは、やっぱり、それだけ日向さんが洸希さんのことをよく知って、深く信じてるからという理由が一番大きいんじゃないかな。ずっと傍で見てきたから、ずっと傍にいたから、姫乃さんに対しても、信じていいんだよとも、信じてくれるはずだよとも言い切れる……一見当たり前のことみたいに見えるかも知れないけれど、でもそれは本当に、すごく特別なことだ。日向さんが身勝手に相手を信じるタイプのひとではないからこそ、なおのこと。


 ところでその後洸希さんと姫乃さんの間にあった成り行きは、いやいや日向さん全部見通してたようにしか見えないんですが2って思わず笑っちゃったくらいなものでした。 洸希さんが甘く優しいイケメン台詞とかじゃなくて「ちょっとムカついたから」なんて言っちゃうとこも、まさにまさにといったところ。洸希さんはたしかに日向さんの言う通りの、素敵な男の子なのです。


  1. 原文ママ

  2. いや別に料理の話というわけではないんだけど。