CUE! / エピソード"dig down メモリーズ"


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©Liber Entertainment Inc.

 ガチャのあるゲームに色々触れる中で、こういうゲームって「何を描かないことを選ぶか」は大事だなーと感じるようになった。ガチャを引かないと読めないエピソードがあるなら、そのエピソードを読める人も読めない人も、どちらもいる前提で他のエピソードは描かれないといけない。だから、例えば誰かの気持ちを描くとき、その気持ちに至るまでの過程にひとつひとつ細かな説明を積み上げていく、みたいな語り方は難しくなりがちだ。

 でもそもそもの話、言葉にしたくないこと、語り方に困ること、言葉にした端から嘘になってしまうこと、そんなものはたくさんある。

 「細やかな心理描写」というのは褒め言葉としてたまに使われる表現だけど、一口に細やかといっても、ただ事細かな描写に淫するなんてのは厭らしいだけだったりもする。だから別に媒体なんて関係なく、単にごく基本的な話として、何を描かないかの選び方は大事ですね、というだけのことかもしれないけれど。


まほろ「少し……、思い出した。タイムカプセルに何を入れたか。」
美晴「なにをいれたの?」
まほろ「多分なんだけど……、作文。」
美晴「うん。」
まほろ「で、これも多分なんだけど、どうせまほろのことだから、世の中を斜めに見た、生意気でくだらない文章だと思うの。」
美晴「うん。」
まほろ「ねぇ、ここまで来てなんだけど……、帰らない?」
美晴「ええ?」

 まほろさんの"生意気でくだらない文章"が残ってるだろうという言葉は、実際それらしい、筋の通った予想ですよね。

 別にトラウマとかそういう深刻な話ではない。 小学校時代のことだって、平気っていうのはまほろさんの強がりではないだろう。 仮にタイムカプセルから出てきた作文を読んで、それが予想通りのものだったとして、まほろさんは幼い頃の自分を少し嘲う程度のことで、きっとすごくしんどい思いをするわけじゃない。

 でも、予想通りの厭なものを見せられる――そういう微温的な苦痛が、むかしの自分に対する倦厭の味でもある。


 幼い頃の自分を、無かったことにしたいわけじゃない。 でもよくよく知っている自分自身についてのことだ、どうせつまらない結果しか待ってないとしたら、それは記憶の片隅にでもひっそりと眠らせておくのが上等で、あえて掘り返すのは野暮にも映る。

 もし仮に、実際に目の前で10年前の幼い自分がくだらないことを言ってきたのなら、まほろさんも彼女らしい優しい皮肉を返してあげることができたかもしれないけれど、残念ながらそんな風に過去の自分と言葉は交わせたりはしない。だからまほろさんにとってタイムカプセルの中の作文は、読まず眠らせておきたい言葉に見えていたのかなと思う。


 だけど結局タイムカプセルは掘り返すことになって、夕暮れの小学校の校庭で美人さん二人、スコップ片手に油田が出るだの温泉が出るだの、とぼけた会話をしながら地面を掘ってる絵面がとてもよくてね。 美晴さんは「うん。」「うん。」って真摯にまほろさんの言葉を聞いてはいるんだけど、でもやっぱりその屈託にはぴんと来てないっぽいんですよね(美晴さんらしい話だ)。 でも何だかんだで東京から遠く名古屋の小学校までまほろさんを連れてきて、そして楽しそうに地面を掘り返している。別にそこまで強引というわけでもないはずなのに、不思議な話です(これもまた美晴さんらしい)。

 それで手紙を開いて読んでみれば、今のまほろさんが予想してたことは、10年前のまほろさんにとっても予想通りなことで、そこは確かに二人とも間違っていなかった。だけどその後に続く問いかけは、今のまほろさん側の予想の中にはなかったもので、そしてなにより驚きだったのは、その問いかけへの今のまほろさんによる答えもまた、10年前のまほろさん側にとって予想外なものだったらしい1ということでした。

 今のまほろさんと10年前のまほろさんの両方ともが予想を裏切られているとこも好きだし、だけど全部が全部予想外だったとか、予想外だったおかげで救われたとかっていう話じゃないところもすごく好きなんです。

 さっきも言ったとおり、作文の内容が仮に予想の範疇から出なかったとして、それでまほろさんが激しく傷つくわけじゃない。 同様に、仮に10年前のまほろさんの予期が合っていたとしても、それでもまほろさんは"大丈夫"だったはずだし、今と同じようにちゃんと自分自身を好きでいて"頑張れ"ていただろう。

 そんな風にまほろさんの考え方や立ち方への敬意をきちんと払って、その上で彼女の予期が外れる出来事を描いてくれているのが好きなんですね。


 付け加えるなら、10年前のまほろさんについては、作文のテキストそのものとそれを読み上げるまほろさんの(心の)声が示されているだけ、ということも心に留めておきたい。 10年前のまほろさんが何を考え何を感じていたかを本当の意味で知ること、語ることは今となっては誰にも2できないわけだから、それはとても真っ当な態度だ。

 読んだところで詮のないものと思っていたところに、驚くような言葉が見つかることもある。 でもだからといって、何もかもすべてを仔細に読んで/語っていけばいいとか、そんな風なものでもない。 一度は静かに眠らせておきたいと思った言葉を躊躇いながら掘り起こす、逡巡のある場所に踏み込むお話だからこそ、誠実で遠慮深い語り口がうれしい。



  1. 10年前のまほろさんは、自分の問いかけに対してYESという答えが返ってくる可能性が高いと予想していたように思える――とはいえ、当時のまほろさんにはNOと答える自分が想像できなかった、という方がきっと正確なのだろうけれど。

  2. 言わずもがな、今のまほろさん自身にも。