来栖夏芽"人外教室の人間嫌い教師"

 来栖夏芽さんは声と喋りが結構好きで、たまに配信も観ていたりします。なので本作も手にとってみたんだけど、なんか単純にめっちゃ良かったですね。

 そもそも文章がいい。

水月はずっと校長の横でまっすぐ立っていた。
初級クラスと中級クラスの生徒もなんとか整列を始めている。初級クラスの生徒の中には、寒さが我慢できなくてストーブの前から離れられない生徒もいたようで、星野先生がもう1台、予備のストーブを持ってきていた。
――さあ、卒業式が始まる。
(222,223p)

 水月さんの凛とした姿に向けられた視線が、初中級の子たちの楽しげで優しげな光景に移って、そこから少し感傷的な「――さあ、卒業式が始まる。」という独白に辿り着く――この視線と意識の動かし方がすごくいいなと思うんですよ。卒業式ってそういう、色んなものが混じった時間だから。

 卒業式の日のちょっとだけおごそかな空気、これまで積み上げてきた日々が突然区切りを迎えてしまうのに、でもそれはありふれた普通の一日でしかなくもあって、というあのヘンな気持ちを100%正しく受け止める方法なんて、きっとこの世には存在しない。

 たとえば「これは終わりであると同時に、新しい生活の始まりでもある」とか「泣いてスッキリして次に進めばいい」とか言って切り替えるのは正しいし、確かにそうすべきなんだけど、でもそれで置き去りにしてしまうものもある。かといって「割り切れないものは割り切れないままにしておけばいい」なんて言うのも、それはそれで嘘でしょう。大体、心というのは「割り切らないままにしておく」なんて器用なことが可能なようにはできていないのだし。

 そういう、どうにも消化しきれないものに向き合う時のせめてもの足掻きとして、感傷というものがあるのだと思う。


 作品の構成について述べると、各人が自分の抱えている想いに向き合うという物語の進行度合いと、不知火高校という場所における時間の流れとを、過度に結びつけすぎていないのが美しいなと思っています。

 女の子四人に春夏秋冬の四章を割り当てるみたいなシンメトリックな構成を避けて、たとえば"川辺の夏休み"の章のようなエピソードが差し挟まれたりする。

 結果として、三月の卒業式の章にたどり着いた時に「ああ、もう一年が経ってたんだ」と、はっとさせられるような心持ちになったんですね。


 そもそも"彼女たちはニンゲンじゃない。けれど、誰よりもニンゲンに憧れている。これは、俺が教師生活を通して見た、ヒトならざる者たちが送る人間賛歌の物語である。(12p)"こんな大袈裟なフレーズから始まるとはいえ、本作は別にニンゲンがどういうものだ的な哲学を語るような、そんな話にはなっていない1。 特別ではない誰かの、けして特別ではない悩みの話をしている中で、いつの間にか普通に一年が過ぎ去っている。

 だけどそこにはなにかうまく消化しきれない感傷のようなものがあって、「ニンゲンじゃない」という言葉は、その感傷を見失わないための爪痕みたいなものとして働いているように思う。ただニンゲンとして前に進んでいるだけだと、通り過ぎてしまうような感傷って、やっぱりあるから。


 そうそう、余談ながら、巻末に添えられた学校とその周辺の地図もよかったです。児童書とかの地図が好きな人には刺さる感じのやつ。


  1. そういう意味では、正直言って「人間賛歌」なんていう雑に強すぎる言葉は別に使わなくてもよかったんじゃないかなーとは思いますが。