にゃんと素敵な夏色デイズ

 筋書きは対象年齢:小学校中学年向けといった雰囲気でありつつ、なにげない言葉に血と神経が通った、とてもよい作品でした。日付を飛ばさずに一日一日を刻んでいくオールドスクールなスタイルも、作品のありようとしっくり噛み合っていてよかったですね。

ミカン「にゃふぅ。膝枕、気持ちいいねー」
「膝枕をはつめーした人は、すごいと思うな」
夏樹「発明、って」
ミカンらしい言い方に、ついつい笑ってしまう。
ミカン「ねぇねぇ、ご主人さま。あとで、ミカンも膝枕してあげようか?」
「ミカン、ご主人さまも気持ちよくなってほしいな♪」
夏樹「じゃあ、機会があったらお願いしようかな」
ミカン「ミカンに任せてっ!」
「にゃう……」
夏樹「眠くなってきちゃった?」
ミカン「うん……うつらうつら、ってしちゃう……」
夏樹「寝ていいよ」
ミカン「でも、お仕事……」
夏樹「まだ、休憩時間だから大丈夫。時間になったら起こしてあげるから」
ミカン「にゃう……ご主人さま……」
「ミカン、寝るね……」
「おやすみなさい……」
「……」

 ご主人さまと呼ぶひとの膝に頭をあずけて、その暖かさや音や匂いを感じて、いつもと違う視界を眺めて。そのときミカンさんが恋や愛をめぐる言葉を交わすでもなく、耳かきやスキンシップを楽しむでもなく、ただ素直にうとうとと眠気に身を任せているのを見て、とても無防備で壊れやすいものを目の当たりにしている気持ちでいっぱいになった。

 人が誰かにはじめて膝枕をしたりされたりする時って、そこに特別な意味とかを見出してしまったりしがちになる。それは膝枕が恋人や家族みたいな特別な関係の相手にしかしない行為だからだ。

 だけど信頼する誰かの膝に頭をあずけて天井を眺めた時にやってくる眠気って、お腹のほうから生まれて頭や指先まで広がっていくような、もっとずっとシンプルな感覚ではないか。

 そんな風に意味とか関係性とかを抜きにして、ただ身体の芯から訪れた眠気に無防備に身を委ねられることというのは、実はすごく貴重なことだ。いいとか悪いとかすごいとかすごくないとかではなくて、単に貴重。少なくとも私にはできないことだし、だからこそそれを愛おしく思う。


 ミカンさんをはじめとした女の子たちは、夏樹さんのことをご主人さまと呼んで、ひとというよりはどちらかといえば猫であることをアイデンティティにしているようにも見える。

 じっさいこの作品は、彼女たちにいわゆる「人間的」なありかた――あえて図式的な言い方をするならば、ひとりの個人として理性と感情のバランスを取りながら自分の生き方や将来を探っていくとかいうような――をさせるような物語ではなくて1、ミカンさん達はただ素直に、眼の前にあったりなかったりする幸福をまっすぐに享受して生きている。

 それはもちろん、ミカンさん達が猫だから安易安楽に生きているとか人間のご主人さまに支配されているとかそんな話ではなくて、むしろその素直さはごく繊細なバランス、偶有性の上に成り立っている。だからこそ、それは貴重な幸福なのであって。


 たとえば以下の一節なんかも、本当にさりげなく、身体的感覚としての信頼とその多彩で微妙なかたちについて語ってくれているように思う。

鼻歌交じりに、ミカンはライムの髪を乾かして、ブラシで整えていく。
かなり慣れたもので、危ういところが一切ない。
涼花「レモンちゃんもミカンちゃんも、上手ですね……ライムちゃん、あんなに気持ちよさそうにしていますよ」
ライム「……にゃう♪」
夏樹「ライムがじっとしているおかげもあると思うよ」
「口ではなんだかんだ言うけど、ミカンとレモンだから安心して任せているんだろうな」
涼花「うぅ……私、ライムちゃんにまだ信用されていないのでしょうか?」
夏樹「それを言うなら、俺が前にドライヤーをかけた時も、なかなかおとなしくしてくれなかったし」
「あの三人は、俺たちと出会う前からずっと一緒だったみたいだからな。それだけ、相手のことを信頼しているんだろう」
涼花「……確かに、そうかもしれませんね」

 ライムさん達はご主人様へ全幅の信頼と愛情を向けているんだけど、でもドライヤーの音が怖いことについては、なんだかミカンさんやレモンさんに髪を乾かしてもらう時の方がリラックスできたりするみたいなんですね。

 ご主人さまへの信頼パラメータはマックスだからどんなことでもご主人さまと一緒なら怖くない、みたいな乱暴な話でないことも、それでいて「ご主人さまへの信頼はこういうもので、仲間への信頼は、涼花さんへの信頼は~」みたいな知った風な説明に淫したりしないところも好ましい。

 信頼なんて、突き詰めれば根拠のない、あやふやで身体的な感覚だと思う。そういうふわりとしたものを、ドライヤーから吹き付ける暖かな風の騒がしさを通して、たしかなものとして感じさせてくれるテキストがありがたい。


 あと、たとえばこうした夜の帰り道の会話の形などもさりげなく印象深いものだった。

レモン「ご主人さま、ライムと遊んでないで早く行きましょ」
ミカン「お腹すいたー」
夏樹「その前に、材料が足りないから、ちょっと買い物をしていこう」
ミカン「ミカン、荷物持ちするーっ!」
夏樹「ありがと」
ミカン「にゃふぅ~♪」
頭をなでなですると、ミカンは気持ちよさそうに目を細めた。
ライム「……ライムも荷物持ちをします」
レモン「れ、レモンもっ!」

 ライムさんが夏樹さんにじゃれかかって、レモンさんがはやく行きましょって急かす。ミカンさんがお腹がすいたーと同調して、さっき決めた晩ご飯のメニューのために寄り道しなきゃと夏樹さんが言う。ミカンさんがお手伝いするよって元気よく手を挙げて褒められたら、それを見たライムさんもレモンさんも、ミカンだけずるい!とばかりに自分たちも手を挙げて。

 四人で歩きながら帰っている時、誰が誰と話しているかはくるくると入れ替わる。会議室でテーブルを囲んで話してるとかじゃないんで、互いが互いを全員視界に収めながら喋ってるわけじゃないことも、そうした会話の形に関係していたことだろう。

 視線の向きや距離や歩き方といった空間的な事情に影響されてころころと転がる会話という気まぐれな生き物は、いかにも捉えがたく、だからこそ魅力的でもある。



  1. たとえば第二部においてミカンさん達が抱いた「とある感情」が昇華されたきっかけは、お説教でも自己反省でもなく、とある事件が彼女たちをびっくりさせて別の感情を揺り覚ましたことであった。そこでは感情とはべつだんコントロールするべきものとして扱われてはいないよね、と言うことができよう。

来栖夏芽"人外教室の人間嫌い教師"

 来栖夏芽さんは声と喋りが結構好きで、たまに配信も観ていたりします。なので本作も手にとってみたんだけど、なんか単純にめっちゃ良かったですね。

 そもそも文章がいい。

水月はずっと校長の横でまっすぐ立っていた。
初級クラスと中級クラスの生徒もなんとか整列を始めている。初級クラスの生徒の中には、寒さが我慢できなくてストーブの前から離れられない生徒もいたようで、星野先生がもう1台、予備のストーブを持ってきていた。
――さあ、卒業式が始まる。
(222,223p)

 水月さんの凛とした姿に向けられた視線が、初中級の子たちの楽しげで優しげな光景に移って、そこから少し感傷的な「――さあ、卒業式が始まる。」という独白に辿り着く――この視線と意識の動かし方がすごくいいなと思うんですよ。卒業式ってそういう、色んなものが混じった時間だから。

 卒業式の日のちょっとだけおごそかな空気、これまで積み上げてきた日々が突然区切りを迎えてしまうのに、でもそれはありふれた普通の一日でしかなくもあって、というあのヘンな気持ちを100%正しく受け止める方法なんて、きっとこの世には存在しない。

 たとえば「これは終わりであると同時に、新しい生活の始まりでもある」とか「泣いてスッキリして次に進めばいい」とか言って切り替えるのは正しいし、確かにそうすべきなんだけど、でもそれで置き去りにしてしまうものもある。かといって「割り切れないものは割り切れないままにしておけばいい」なんて言うのも、それはそれで嘘でしょう。大体、心というのは「割り切らないままにしておく」なんて器用なことが可能なようにはできていないのだし。

 そういう、どうにも消化しきれないものに向き合う時のせめてもの足掻きとして、感傷というものがあるのだと思う。


 作品の構成について述べると、各人が自分の抱えている想いに向き合うという物語の進行度合いと、不知火高校という場所における時間の流れとを、過度に結びつけすぎていないのが美しいなと思っています。

 女の子四人に春夏秋冬の四章を割り当てるみたいなシンメトリックな構成を避けて、たとえば"川辺の夏休み"の章のようなエピソードが差し挟まれたりする。

 結果として、三月の卒業式の章にたどり着いた時に「ああ、もう一年が経ってたんだ」と、はっとさせられるような心持ちになったんですね。


 そもそも"彼女たちはニンゲンじゃない。けれど、誰よりもニンゲンに憧れている。これは、俺が教師生活を通して見た、ヒトならざる者たちが送る人間賛歌の物語である。(12p)"こんな大袈裟なフレーズから始まるとはいえ、本作は別にニンゲンがどういうものだ的な哲学を語るような、そんな話にはなっていない1。 特別ではない誰かの、けして特別ではない悩みの話をしている中で、いつの間にか普通に一年が過ぎ去っている。

 だけどそこにはなにかうまく消化しきれない感傷のようなものがあって、「ニンゲンじゃない」という言葉は、その感傷を見失わないための爪痕みたいなものとして働いているように思う。ただニンゲンとして前に進んでいるだけだと、通り過ぎてしまうような感傷って、やっぱりあるから。


 そうそう、余談ながら、巻末に添えられた学校とその周辺の地図もよかったです。児童書とかの地図が好きな人には刺さる感じのやつ。


  1. そういう意味では、正直言って「人間賛歌」なんていう雑に強すぎる言葉は別に使わなくてもよかったんじゃないかなーとは思いますが。

わんこの嫁入り(1~2作目合わせて)

 少しばかり前置きの話を。

 泰矢さんは子供の頃にコハルさんアズキさんの二人と結婚の約束を交わしたらしいんだけど、あんまりちゃんと覚えてない。再会後に泰矢さんが改めて二人と「結婚しよう」となるまでの半年の時間についても、描写はほとんど飛ばされている。

 再会直後、一緒に暮らそう、お店を開こうと決めた時点で、三人が結婚することは半ばは決まっていたようなところはある。だけど半年の時間が育んだものももちろん山程あるわけで、時系列や因果を辿って「これが泰矢さん達が結婚したことの決め手だったんです」と整理するような話でもないように思われる。

 この作品の素敵なところの一つが、たとえば「結婚した理由」みたいなもの、泰矢さん達の無意識の中に確かに存在していて、だけどちょっと説明しにくいものを、まあいっか~とばかりに脇に置いてしまって、ただただ平凡で普通なお話をしてくれるところです。

 人間性が素晴らしい!とか頭いい!かっこいい!とかでもない、もちろん別に詩的とかでもない。そんな普通のやりとりの一つ一つに、だけど泰矢さん達の間にある無意識の文脈や空気を感じさせるものがちゃんとある……そうしたやり取りに耳を傾けるのが楽しい。


母「あれね、泰矢は叶えたい夢があるから、結婚云々を考えられない、って感じね?」
泰矢「まぁ、正確には叶えたかった夢だけどね」
母「でも、心のどこかじゃまだ諦めてないはずよね?」
泰矢「……うっ」

 たとえば冒頭のこんな一節。お母さんの指摘の言葉がさらっとしてて、息子のことはなんでも知ってますよ的な嫌らしさとかがないのが好ましい。

 そもそも一緒に暮らしてる家族同士、泰矢さんの夢についてはお互いなんとなく分かってて、単にわざわざ口にはしてこなかっただけなんだろう。だからこの場で改めて口にしてみるにしても、お互い実は知ってたことを確認するみたいな雰囲気が感じられます。


グツグツと煮えてきたのか、部屋に充満するカレーの匂いが一層強くなる。
そのせいか、さっきお腹いっぱい食べたというのに、その、なんというか……。
アズキ「……なんか、僕も食べたくなって来ちゃった……」
泰矢「めっちゃわかる……」
(…)結局5人分。
コハルの『どうぞ』という一言を合図に、深夜にも関わらずみんなでカレーを食べたのだった。

 こちらは、夜中に見知らぬ二人が家に忍び込んでいて、だけどどうもその人達はコハルさんアズキさんの知り合いらしくて……みたいな場面。そこから泰矢さんたち夫婦と合わせて五人、突然に深夜のカレー会が始まるんだけども。

 結局なんでこの人たち勝手に家に上がり込んでたの?という困惑とか、旧知の人に久しぶりに再会した嬉しさとか、深夜にカレーを食べちゃう背徳感とか、そういうの全部脇に置いて、まるでふだんそうしているのと同じみたいに、夕ご飯の残りのカレーが出てくるのです。


泰矢「朝からこんな食べるとは思ってなかったからな。ああ、そういやおにぎりが残ってるか」
コハル「おにぎり、ですか?」
泰矢「ああ、昨日二人に差し入れようと思って作ったんだ」
アズキ「それ食べたい!」
コハル「わ、私も食べます! 泰矢さんが作ってくれたおにぎり!」

 こちらはコハルさんアズキさんが凹んでた日の夜、泰矢さんが夜食のおにぎりを作ったら、二人とも寝てて空振りした後のこと。次の日の朝ごはんは泰矢さんが作ったんだけど、昨日のおにぎりも一応冷蔵庫に入れてて、お腹がまだ空いてたからそっちもぺろりと平らげてしまって。

 泰矢さんのささやかな気遣いが、ダイレクトにコハルさんアズキさんに刺さるのではなくて、一度空振りしてから「冷蔵庫に入れといたら次の日にも食べられるね」っていう生活感に溢れた形で届くのがいいなと思うんですよ。普段からこういう風にやってるんだよねっていう、板についた身振りを感じさせるものがあって。


 それはどこか「自分の家の中は目隠ししたって歩けるし、お風呂も入れるし着替えもできる」みたいなことと似ているのかな。

 毎日その家で過ごして身体に染み付いているからこそ、普段と少し違う今日が来ても、多少なりとイレギュラーがあっても、いつもの延長線上みたいに生きることができるわけでしょう。というより、昨日とそっくりそのまま同じ今日などというものは絶対に来ないのだから、毎日を過ごすということ自体、もともとそういう営みの繰り返しだという話なんだけど。


五月什一"コスプレ義妹と着せかえ地味子"

 デビュー作、特に二巻がなかなか良かったので本作も手にとってみたんだけど、驚くほどに華奢繊細な作品でした。


「あ、今の表情よかったよ」
「え? い、今の? こ、こうですか?」
「そうそう」
というわけで俺はカメラを構えながら、ひたすら笑顔でポジティブな言葉を吐き続けていた。(…)眠夢は素人だ。だから「上手くできている」という安心感を与えて緊張しないようにしてあげる必要がある。(150,151p)

御景さんからはそういう下心をまったく感じない。撮影をしたときなんてまさにそうだ。あれだけ私を口説いておきながら、下心が一切ない。
あれ、たぶん思ってるままをそのまま口にしてた。(171p)

 別に御景さんは嘘をついているわけではない1んだけど、少しでもいい写真を撮るために必死でもある。だから相手の表情を引き出すため、フォトグラファーとしての付け焼き刃の手練手管を使っていたりもする。

 翻ってそれを受け取る眠夢さん側としては、義兄がときどき無理して格好つけてること自体は見透かしてはいるんだけど、当然ながら相手のことを全部分かってるわけでもない。だから、眠夢さんが御景さんの気持ちを推測する際には、不十分な想像によって補われた部分がある。

 冒頭で提示される「僕」と「俺」、またコスプレとカメラといった道具立てのせいもあって、序盤だけだと本作は素顔と仮面、相互理解とすれ違いといったモチーフを取り扱っているようにも見える。でも多分そうではなくて、本作はもっとずっと深い場所に踏み込んでいる物語だ、という話をしたい。


赤くなってしまった顔を見られないようにテーブルに伏せる。
なにかあると言っているようなものだけど、どうせ今の御景さんは私がなんでもないと言えば無理に見ようとはしないからこれでいい。
そもそも、よく考えてみれば高校デビューで写真部というのもおかしな話なのだ。だからきっと御景さんは部活まで私のために選んでしまったに違いない。それはなんて優しくて、甘くて、――重たいのだろう。(168,169p)

 このくだりの甘やかさときたら! なにせ眠夢さんがぐっと来てしまったのは、御景さんがどういう人だとか、どんな行動をしたかとかではなくて、彼の"重さ"になのだ。

 たとえば、恋人でもない相手からいきなり誕生日に手編みのマフラーを贈られるのは"重い"。それは、関係性というものが間主観的な、相手が自分をどう思っているかやどう接しようとしているかを互いに推測しあうことで成り立つ、合わせ鏡のような位相にあるものだからだ。

 親密でない相手から恋人みたいに振る舞われるとき、相手の主観(=自分達が親密であるかのように振る舞っている)が、こちらの主観(=自分達は親密ではないと思っている)にのしかかり、侵食してくる。その侵される感覚を、ひとは重さと呼ぶのだろうと思う。


もしこの時シャッターを切っていたのが俺じゃなかったら、例えば師匠だったなら、もっと光理の魅力を訴えかける写真になっただろう。
「いやいや、いいってこれ。イケてる。イケてるよ!」
(…)
「あははっ。でもびっくりした~。御景くん、写真下手だーなんて言うからもうぶれっぶれの写真でも出てくるのかと思った」
「それはもう下手とかいうレベルじゃないだろ」
「いやいやそれが下手ってやつですよ? 普通は」
そうなのだろうか? 若干納得がいかないが、本題ではないので掘り下げたりはしない。(176,177p)

 御景さんは自分の写真は凡庸至極だと言うし、光理さんはちゃんと上手いじゃんと言う。実際、どちらの言うことも作中の描写とは矛盾していないし、多分御景さんも光理さんも、べつに間違ってはいないのだろうと思われる。

 お互いに相手の言い分も少しは分かるんだけど、素直に飲み込めるわけでもない。 だから、光里さんが御景さんにオーディション写真の撮影を依頼した出来事を「写真の上手い人に頼んだ」と解釈するのか、「写真の才能のない人に頼んだ」と解釈するのかは、はっきりとした合意にたどり着くことはない。そしてその揺らぎの中には、先ほどの"重さ"とよく似た、甘いような息苦しいような、独特の感覚がひそんでいる。

 自分がどんな人間だと思っているのか、どんな人間になりたいと思っているのか、どんな人間だと思われているのか――それもまた、突き詰めて言えば関係性と同じく、互いが互いに影響を与え侵食し合うことで成り立っているものだからだ。


 だからこの作品には、ただの主観の間のずれやすれ違いではなくて、それらが交差する瞬間2に生まれては消えゆく、とらえどころのない何かが描かれている。

 そういうものを描き出すにあたって、ゆるやかにいくつもの出来事をリンクさせる構成もさることながら、眠夢さんという女の子の個性はとても大きな存在感を放っていたように思う。聡明で、自分のことも他人のこともしっかりと見てて、だけど他人の主観を――たとえば御景さんの"重さ"を――拒まずに素直に受け止めてしまえるところがある。素直さというか、透明さといったほうがよいのだろうか……御景さんの言う通り、本当に綺麗な人だなあと思います。



  1. 基本的に、御景さんは眠夢さんのことを本心からめっちゃ可愛いよ~~~って思って褒めてるので。

  2. 223p参照。まあベタですね。

IDOLY PRIDE/エピソード"星見編"

つらつらと。


渚さんのこと

渚「そうしたらそこに息を切らせた琴乃ちゃんが来て 私はノートを開いているところを見られちゃって」
牧野「琴乃、怒ったんじゃないのか?」
渚「それはもう……一生懸命に謝ったんですけど なかなか許してはくれませんでした」
「でも、絶対に友達になりたかったから諦めずに謝りました 何度無視されても、めげずに声をかけたりして……」1

 渚さんの語る過去はあまりいい話っぽく綺麗に整理されていなくて、そこには当時の二人の、中学一年生らしい幼さや乱暴さを含んだままの手触りがある。

 昔話というのはふつう、脚色されたり後付の言い訳が入ったりして、現在の自分に都合がいいように編集されているものだ。 それは換言すると、昔話にどんな脚色がされているか、されていないかによって、渚さんがいま何を言葉にしようとしているのかを想像することができる、ということでもある。

 ノートを勝手に見てしまったことも、その後も強引に何度も謝ったりしたことも、言ってしまえば結構野蛮な振る舞いではあって、イイ話と呼ぶには少々アクが強い。例えばこのエピソードを渚さんがTwitterにそのまま書いたりしたら、プチ炎上まで行かないにせよ、きっと色々と批判リプをしてくる人も居るだろう、という程度にはそうだ。

 でもそもそも渚さんは感動のエピソードで友情アピールがしたいわけではないわけで。 渚さんの語りには、なによりもまず琴乃さんと出会った当時の感情の昂ぶりと、今に至るまで琴乃さんに惹かれ続けている熱こそが息づいている。

 仄聞するところによるとIDOLY PRIDEという作品のコンセプトには、人間臭さや感情の生々しさといったキーワードがあったらしい。 嫉妬や欲望や怒りのような分かりやすく派手な感情こそを人間臭さと呼ぶむきもあるけれど、この渚さんの言葉に宿るものもまた、ある意味では"感情の生々しさ"なのかなとも思われもする。


遙子さんのこと

遙子「……たぶん昔の私なら それでもアイドルを続けるって言って聞かなかったよ でも今日、そういう道もありかもって揺らいじゃった」
「それはたぶん……自信がないからだよ 自分で自分の、アイドルとしての素質を……今の私は、信じることができなくなってるの」
牧野「なら、俺が信じますよ。俺だけじゃない、事務所のみんなも信じてる。それだけじゃ自信持てませんか?」
遙子「……それって、具体的には?」
牧野「え? ぐ、具体的にですか……?」
「そうだな……まず何より、努力を重ねてきた時間?」
遙子「そりゃ、みんなより年上だもん 当たり前じゃない」

 悩む遙子さんを励まそうとした牧野さんは、結局、遙子さんの気持ちを変えることはできていない……というより、変える必要がなかった。 遙子さんは自分がアイドルに向いてるという自信はないんだけど、だけどその上でこの先どうするかを自分自身でちゃんと決めることができているし、アイドルを続ける勇気が足りないとかでもない。

 結局、牧野さんができたことと言えば、ちゃんと上手く褒めてね?という無茶振りに頑張って応えようと試みることだけだ(なお全然上手く褒められなかった模様)。 迷った遙子さんがマネージャーに進むべき道を教えてもらったよとか、あるいは背中を押してもらったから前に進めたよとか、そういう流れにはならない。

 とはいえ遙子さんがトップアイドルになれるという自信が持てないのも、将来に悩んでたのも事実だから、 遙子さんがマネージャーに上手いこと褒めてもらって自信を得たいというのも、それはそれで当たり前の気持ちであって。 自信や自己肯定感なんてのはいくらあったって足りないときは足りないし、何かあれば簡単にどっかに消えてしまうような水物なのだから、最初からそれはふらついた話なのだ。

遙子「アイドルは、ずっとは続けられない限りのある夢だから でもだからこそ、素敵な夢なんだと思う だからこそ……眩しく輝けるの」

 そんな風にマネージャーにも褒めてもらって自己肯定感をちょっと充填して、最後に遙子さんはこんなことを言うわけですけれども、でもまあこれもちょっと変なセリフではあって。

 アイドルがずっと続けられない仕事なのは事実だろうし、遙子さん達サニピがいま眩しく輝こうとしてることも事実だが、別にその二つを結ぶ「だからこそ」という因果関係なんてのは、物語中には全く示されていない。 たまたま風の強い日に桶屋が儲かったからといって、別にその間に因果関係があるとは限らないわけで。 例えば「若いエネルギーを短い間に燃やし尽くすからこそ、あれだけ眩しく輝けるんだ」みたいな(物語中に1ミリも描かれてないような)理屈付けができないわけではないけれど、そんなのはただのこじつけでしかない。

 で、そもそも遙子さんのこのセリフが、この後の物語で何かしら意味を持ってくるみたいなことも別にない2。だからまあ言ってしまえば、この遙子さんのセリフはその場の勢いだけでふらっと主語のでかいことを口にしてしまっているだけで、特にそこに深い意味はない、という風に見えてしまう。

 だけど実際問題、テンション上がって何となく浅いこと言っちゃうのって、誰でもやるような当たり前のことではあるんですよね。 そういうとこ、遙子さんに限らず、出てくる人達は割と各人が好き放題に話してる感じがあって、やんちゃだなとも、エネルギッシュだなと思う。

 正しくなくていい、浅くていい、そういう勢い任せな言葉が伸び伸びと口にされてて、それでちゃんと人が魅力的なのは、いい作品だなあと思う。


麻奈さんのこと

麻奈「それでいい……良かった 私の知ってる牧野くんで」
芽衣「……どういうこと?」
麻奈「この人はね…… アイドルが好きなの」
「みんなを楽しませることが出来る、凄い力を持ったアイドルを見たい、育てたいって……誰よりも思ってる」
芽衣「…………でも……」
麻奈「それを邪魔するようなことは、絶対にしない」
「さくらちゃんやみんなのためにも、絶対に……」

 で、この辺のセリフの機微3についても書こうとしてたんだけど、書きながら、これはどうあっても野暮にしかならんなーと思って止めました。 これについてはあーだこーだ言うより、麻奈さんの口にしてたことは全部本当のことだったということにして、ただ胸に仕舞っておけばいいんだと思います。

 たぶん麻奈さんと牧野さんの物語はきちんと閉じられないままに終わってしまったんだけど4、 でもその話がこの先掘り返されることはきっとないのだろうし、それはそれでいいのだと思う。 なので、モヤモヤはモヤモヤのまま飲み込んでおくのが一番誠実な受け止め方なのかなと。



  1. ゲームの仕様上、セリフの切れ目が明確ではないので、セリフの切れ目を筆者が独断で編集しています。

  2. 少なくとも星見編では、筆者の見た限りはなかったはず。このセリフを麻奈さんの夭折と結びつけるのも、麻奈さんが夭折しなかったら今より輝きが薄れてたのか?と問われたらそんなことはないだろうから、普通に無理筋だろうと思う。

  3. 牧野さんの優先順位が「トップアイドルを育てたい」が一番で「さくらちゃんやみんなのため」が二番目みたいな言われ方をしてるけど……みたいな話。

  4. 未実装のFirst Step編も読まないとわからないところはあるんですが、多分。

CUE! / エピソード"おためしマーケット"

凛音「アリス! 大丈夫?」
アリス「バッテリーにエラーがあります。分解して確認してください。」
凛音「え! 分解するの!? 出来ないよー、そんなこと!」
アリス「助けてください。行動が出来ません。」
凛音「ええ、どうしよう? 何をすればいいの?」
アリス「バッテリーにエラーがあります。分解して確認してください。」

 誰かと言葉のやり取りをするとき、人は文脈を通じて相手の意図を想像するし、相手も同じことをしているはずだと考える。 例えば同じ言葉を一言一句違えず繰り返すという言語行為は「君には理解力が足りないのではないか?」という皮肉として機能することがある。

 この皮肉は、"説明が相手に通じなかったことの原因は「自分の説明が悪かった」か「相手の耳か頭が悪い」かのどちらかだと考えられる"という前提を双方が共有することで成り立つ。 その前提が共有されていると、同じ言葉を一言一句違えず繰り返すのは「自分の説明が悪かったとは思ってないですよ」=「お前の耳が悪いんだよ」という意図を示すパフォーマンスとして機能する、と説明できる。


 とはいえ、お掃除ロボットのアリスが、果たしてそこまで高度な皮肉を込めて「バッテリーにエラーがあります」という言葉を繰り返したのかどうかは定かではない。 まあ多分アリスは、ただ決められた定型文を反復しただけなんだろう。

 だけど凛音さんのように、アリスにはアリスなりの考えや気持ちがあって言葉を発しているんだと想像することもできるし、本当のところどうなのかは誰にも分からないことだ。

 皮肉の例がそうであるように、会話とは自分と相手が文脈を共有していると信じた上で成り立つ行為だけど、 相手がどういう文脈に沿ってどういう気持ちで発言したかなんてのは、真の意味では知ることができなくて、勝手に想像するよりない。 そしてだからこそ、人はお掃除ロボットの気持ちを想像し、会話をすることもできるとも言える。


 そしてこの「気持ちの想像」という行為には連鎖する性質があって、好きな相手が共感してる相手には自分も共感しようと思いがちだし、逆に自分が共感できない相手に共感してる人間とは会話がしにくかったりもする。

 「自分に想像できないものを想像できる人」の気持ちというのは想像が難しくて、会話がうまく成り立たないからだ。だから仲のいい二人のうちの片方とだけ仲良くなるというのは難しくて、両方と仲良くなるか両方と疎遠になるかのどちらかになりがちになる。 気持ちの想像や文脈の共有という仕組みには、そういう、白か黒かをはっきり塗り分けるよう求めるところがある。


凛音「でも、アリスって、お掃除のロボットなんだよね。」
「お掃除ロボットとして生まれたからには、ちゃんとお掃除したいよね。」
アリス「はい。私は小型ロボット掃除機です。」
凛音「そうだよねー。」
鳴「……買い取ろうか? 私が。」
凛音「え、なるちゃん?」
鳴「見たところ、私のニーズに合ってそうだし。凛音さんが良ければだけど。」
凛音「そっかー……。でも、アリスにはそっちがいいのかも!」

 けれどここでは、鳴さんと凛音さんの食い違う世界観を白か黒かの一方に塗り分けないままに、静かな対話が成り立っている。

 鳴さんは基本的にお掃除ロボットをモノとして扱っているし、だからこそお金を出してアリスを買い取ることを提案している。そもそも鳴さんは、自室用のお掃除ロボットを買おうとしていた、という文脈もある。

 だけど鳴さんの提案は、凛音さんの「自分にはアリスに上手くお掃除をさせてあげられない」という言葉に対しての返答である、という文脈上にもある。 だから凛音さんは「アリスという子の面倒を見ることを、鳴さんが引き受けてくれた」という文脈で鳴さんの行為を受け止めても"構わない"。

 「お掃除ロボットのアリスが凛音さんの所から鳴さんの所に移動した」という出来事をどういう文脈の上に位置づけるかが、曖昧なままになっているんです。 アリスはただのモノに過ぎないかもしれないし、けなげで小さな生き物かもしれない。 そのどちらが正しいのかをはっきりと定めないまま、鳴さんは凛音さんの憂いを笑顔に変える。


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©Liber Entertainment Inc.

 そうして部屋にやってきたアリスを、基本的には鳴さんは生き物扱いはしないだろう。 けれどアリスは凛音さんの友達だから、完全にモノとして扱ってしまうのもそれはそれで難しくて、 やっぱりどこかアリスが心を持った存在みたいに感じてしまう部分もあるんじゃないか。

 それは、さきに述べたように、共感という行為が、連鎖し伝染する性質のものだからだ。 鳴さんにとって凛音さんは大事な存在1で、だから凛音さんが大事にしている存在も、鳴さん自身無視できない存在になってしまう。


 凛音さんの世界に住んでいた小さな生き物が、鳴さんの私的空間に引っ越してくる。 凛音さんの世界観が、鳴さんの世界を少しだけ……あくまで少しだけ、侵食しているというか。

 生き物ではないはずのものがどこか生き物であるかのように見えてしまうのは、多分ちょっとばかり居心地の悪いことでもある。 だけどそれを鳴さん自身から提案し受け容れたという成り行きが、こそばゆく愛おしい。


 どういう角度から世界を見るかということを、他人に全部任せるわけでもなく、だけど自分で全部決めるわけでもなく、その中間の、夕暮れに染まるあわいの時間に定める。だからこの会話が夕暮れの事務所で行われていることは、ふさわしいことだったと思います。

 どちらかの私室というのは論外なんだけど、寮のリビングもまた「二人の共有の私的空間」なので、アリスが生き物かどうかについて、二人が共通の見解を持つように仕向ける力場があるように思う。どちらの私的空間でもない事務所という場所が、この繊細なやり取りが成立するのを助けたのではなかったかなと……それはまあ、ちょっとばかり与太話めいているけれども。



  1. 鳴さんにとっての凛音さんが何なのかというのは本題ではないので、ここではこういうざっくりした表現に留めておくこととする。

CUE! / エピソード"廻る日の1ページ"


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©Liber Entertainment Inc.

 前置きとして、少しだけ「未来」についての話をしておきたい。



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©Liber Entertainment Inc.("カレイドスコープ"より)

 本作のお話を読み進めると、陽菜さん達が本番のお芝居をする場面が、ストーリー中で綺麗に避けられていることに気付く1。 けれど本来、お話をドラマティックに盛り上げる上で、お芝居の場面は大事なハイライトのはずだ。 いい芝居をして成功したり、悪い芝居をして失敗したりする場面は、バトル漫画で言うところの戦闘シーンのようなものなのだから。

 多くのバトル漫画では、勝敗を分けた理由(例:ノーカラテ・ノーニンジャ)が何だったかが語られる。 同様に、お芝居の場面でも仲間との絆とか、役柄への深い共感とか、豊かな人生経験とか、あるいは特異な才能とか……そういった何かしら「いい芝居をするための条件」があって、それを持ってれば成功するし、持ってなければ失敗する……そんなナラティブが登場人物の気持ちや行動を駆動していく2のが、王道正道の作劇であろう。 だけど本作はお芝居をする場面を直接ストーリー的に描写することをしないし3、もっと言えば「いい芝居をすること」そのものを物語として語ることを、ストイックなまでに避け続けているように思われる。

 "廻る日の1ページ"と同時期に実装されたメインストーリーSeason1.2 "カレイドスコープ"は、オーディションを軸にしつつ、「10年後」にまつわる印象深い語りがあらわれるエピソードでもあった。でもこのエピソードでも、オーディションの場面は描写されないし、彼女達が10年後の未来にどんな風になっているかが示唆されることもない。そしてオーディションの場面がないことと、未来の示唆がないことは、繋がっている話なんじゃないか。

 「いい声優であるための条件」が描かれてる物語では、その条件を満たしている人物は将来いい声優になるだろうと予期できる。 例えば他人と深く濃い絆を結んだ人間がいい声優になれるのなら、きっと陽菜さん達はその条件を満たしているだろう。

 でもそういう「いい声優の条件」なんてものがどこにもないのなら、未来の予想だって不可能だ。だからCUE!の物語が彼女達の今この瞬間に寄り添い続けることしかしないのは、至極正しい道理なのだろう。……だけど、では陽菜さんの見つめているという「未来」とは、どんな色、どんな形をしたものなのだろうかと。


陽菜「うん……。あのね、志穂ちゃん、旅行は楽しいの。」
「お父さんとお母さんと、こうやって出かけるのも久しぶりだし……。」
「でも、ふとした時に気になっちゃうっていうか……。」
志穂「はあ……、仕方ないな。それなら陽菜に課題を出そう。」
陽菜「課題?」
志穂「この旅行で1番綺麗な物を見つけろ。帰ってきたら私に見せてくれ。」

 慌ただしい夏の日々のさなかに、ふとご両親と静かな海辺に旅行する時間ができたとして、 そのとき自分がいま何をしたらいいのか迷い混乱してしまうのは、無理からぬことというよりはいっそ自然なことであるように感じられる。

 そのとき志穂さんのアドバイスを受けて、自分の頭の中のやらなきゃいけないこと、しようとしていたことの間を彷徨っていた陽菜さんの視線が、外へと向けられる。

陽菜「……空。高いなあ。こんなに、高くて……、青かったんだね。」
「……ん? 風鈴……? あのお家かな。」
「……涼しい音。あの風鈴、かわいいなあ。」
「風鈴の中で……、金魚が泳いでる。風で、ゆらゆら揺れて……。」
「……うん。これも。」

 ただ、ここで陽菜さんがしていることは、多分志穂さんのイメージしていた「綺麗な物探し」とはちょっとだけニュアンスが違う。

 この時のLive2Dの細かな動きを追うと、陽菜さんの目線が、この静かな場所を取り巻く様々なものの間をゆらゆらとうつろっているのが見える。 だけど本当は、綺麗な物をつかまえるには、一度視線を動かすのを止めなければならない。絵を描いたり写真を撮るのには足場を固めて観察することが必要で、もともと志穂さん(彼女は絵を描く人間だ)が最初に陽菜さんにさせようとしていたのは、そういう散歩だったのではなかろうか。

 そしてそんな風に揺蕩っていた視線が、ひまわり畑で、自分がいまいる現在地がどこだったかを思い出す。 多分それが、ようやく陽菜さんがひとつの足場を見出した、ということであって。足場があってこそ、ひとは何かを見つめることができるようになる。


陽菜「……わたし、ちょっとは、変われた?」
「……もし、本当にそうなら。それはきっと、わたしの力だけじゃなくて……。」
「今日みたいに……。」
「……そうだ。お土産……。ひまわりはどうかな。」
「それで、帰ったら、みんなに……。」
「……帰ったら、か。ふふ。」
「わたしの帰る場所は……、うん。」
「あの頃のわたし、未来ばっかり見つめてた。」
「……ううん、今も見つめてる。今よりも、もっと……、未来のわたし。」

 仲間とともに過ごす「帰る場所」を見出した陽菜さんの意識が、「未来を見つめてる」自分自身への眼差しへと向かう――その視線の動きが、このエピソードを読んでいて最も印象深いところだったように思う。

 疑いようもなく、みんなのおかげで今の陽菜さんがある。それはそうだ。けれど、仲間と過ごす時間そのものが陽菜さんを未来へと連れて行ってくれるわけではないことも確かだ。 陽菜さんの未来は陽菜さんだけのもので、そこへと続く道も、陽菜さん自身が歩いていかなければならないものだ。

 そしてその先にある未来の形は、具体的に語られることはない……というか、できない。 陽菜さん自身、一年後、十年後の自分がどうなってるかなんて、はっきりと思い描けているわけじゃないだろう。それは一年前もそうだったし、今もそうだ。 「未来を見つめてる」というのは「未来を思い描く」ことと同じではないんです。

 志穂さん達に持ち帰るべき「1番綺麗な物」を見つけるという課題を出された陽菜さんだったけど、彼女のまなざす「未来のわたし」は写真に撮れない、言葉で書き表せるわけでもない、志穂さん達とは本当の意味では共有できない景色だった4

 けれどそこに孤独感なんてものは欠片もなくて、なぜだろう、ただ佳きことだなあ、という思いだけがある。 あるいはそれは、"潮騒スナップ"でも陽菜さんのことを眩しげな目で見ていた志穂さんと、きっとよく似た気持ちなのではなかっただろうか。

 志穂さんは、陽菜さんがなにに悩み、なにに躊躇うかを割としっかりと理解している。 だけどそれでいて志穂さんには予想できないような何かを見出してくるのが陽菜さんであって、そしてきっと志穂さんは、そういうところをこそ眩しく感じているのだろうから。



  1. オーディションパートや収録パートで芝居をする場面を見ること自体は可能ではあるのだけれど、そこで提示される演技の良し悪しの判定基準はシンプルに「ゲーム内スコアをどれだけ稼いだか」に限られる。

  2. ちなみにこの「いい芝居の条件」は必ずしも単一である必要はない。例えば主人公が絆の力を信じて前に進む、その過程が重要なのであって、絆以外の力で成功する人物がいても構わない。また、「人それぞれにいい芝居の定義がある」という言明も、それはそれで立派なナラティブであろう。

  3. 筆者が把握している限りで唯一の例外は"Airing & Feeling"の朗読劇であろうか。ただしあれは顔を出しながらの朗読なので、裏方としてキャラクターに魂を吹き込む演技とは同列に語れない気もしている。実際、演者と登場人物の境界が曖昧になった上でのぐちゃぐちゃぶりが、"Airing & Feeling"のエピソードの核でもあった。

  4. もっと言えばそれは、画面のこちら側にいる読者にさえも見ることがかなわない景色だ。開花絵は、御前崎灯台の風景でも仲間達の姿でも未来でもなく、いま現在の陽菜さん自身を真正面から捉えた構図になっている。