にゃんと素敵な夏色デイズ

 筋書きは対象年齢:小学校中学年向けといった雰囲気でありつつ、なにげない言葉に血と神経が通った、とてもよい作品でした。日付を飛ばさずに一日一日を刻んでいくオールドスクールなスタイルも、作品のありようとしっくり噛み合っていてよかったですね。

ミカン「にゃふぅ。膝枕、気持ちいいねー」
「膝枕をはつめーした人は、すごいと思うな」
夏樹「発明、って」
ミカンらしい言い方に、ついつい笑ってしまう。
ミカン「ねぇねぇ、ご主人さま。あとで、ミカンも膝枕してあげようか?」
「ミカン、ご主人さまも気持ちよくなってほしいな♪」
夏樹「じゃあ、機会があったらお願いしようかな」
ミカン「ミカンに任せてっ!」
「にゃう……」
夏樹「眠くなってきちゃった?」
ミカン「うん……うつらうつら、ってしちゃう……」
夏樹「寝ていいよ」
ミカン「でも、お仕事……」
夏樹「まだ、休憩時間だから大丈夫。時間になったら起こしてあげるから」
ミカン「にゃう……ご主人さま……」
「ミカン、寝るね……」
「おやすみなさい……」
「……」

 ご主人さまと呼ぶひとの膝に頭をあずけて、その暖かさや音や匂いを感じて、いつもと違う視界を眺めて。そのときミカンさんが恋や愛をめぐる言葉を交わすでもなく、耳かきやスキンシップを楽しむでもなく、ただ素直にうとうとと眠気に身を任せているのを見て、とても無防備で壊れやすいものを目の当たりにしている気持ちでいっぱいになった。

 人が誰かにはじめて膝枕をしたりされたりする時って、そこに特別な意味とかを見出してしまったりしがちになる。それは膝枕が恋人や家族みたいな特別な関係の相手にしかしない行為だからだ。

 だけど信頼する誰かの膝に頭をあずけて天井を眺めた時にやってくる眠気って、お腹のほうから生まれて頭や指先まで広がっていくような、もっとずっとシンプルな感覚ではないか。

 そんな風に意味とか関係性とかを抜きにして、ただ身体の芯から訪れた眠気に無防備に身を委ねられることというのは、実はすごく貴重なことだ。いいとか悪いとかすごいとかすごくないとかではなくて、単に貴重。少なくとも私にはできないことだし、だからこそそれを愛おしく思う。


 ミカンさんをはじめとした女の子たちは、夏樹さんのことをご主人さまと呼んで、ひとというよりはどちらかといえば猫であることをアイデンティティにしているようにも見える。

 じっさいこの作品は、彼女たちにいわゆる「人間的」なありかた――あえて図式的な言い方をするならば、ひとりの個人として理性と感情のバランスを取りながら自分の生き方や将来を探っていくとかいうような――をさせるような物語ではなくて1、ミカンさん達はただ素直に、眼の前にあったりなかったりする幸福をまっすぐに享受して生きている。

 それはもちろん、ミカンさん達が猫だから安易安楽に生きているとか人間のご主人さまに支配されているとかそんな話ではなくて、むしろその素直さはごく繊細なバランス、偶有性の上に成り立っている。だからこそ、それは貴重な幸福なのであって。


 たとえば以下の一節なんかも、本当にさりげなく、身体的感覚としての信頼とその多彩で微妙なかたちについて語ってくれているように思う。

鼻歌交じりに、ミカンはライムの髪を乾かして、ブラシで整えていく。
かなり慣れたもので、危ういところが一切ない。
涼花「レモンちゃんもミカンちゃんも、上手ですね……ライムちゃん、あんなに気持ちよさそうにしていますよ」
ライム「……にゃう♪」
夏樹「ライムがじっとしているおかげもあると思うよ」
「口ではなんだかんだ言うけど、ミカンとレモンだから安心して任せているんだろうな」
涼花「うぅ……私、ライムちゃんにまだ信用されていないのでしょうか?」
夏樹「それを言うなら、俺が前にドライヤーをかけた時も、なかなかおとなしくしてくれなかったし」
「あの三人は、俺たちと出会う前からずっと一緒だったみたいだからな。それだけ、相手のことを信頼しているんだろう」
涼花「……確かに、そうかもしれませんね」

 ライムさん達はご主人様へ全幅の信頼と愛情を向けているんだけど、でもドライヤーの音が怖いことについては、なんだかミカンさんやレモンさんに髪を乾かしてもらう時の方がリラックスできたりするみたいなんですね。

 ご主人さまへの信頼パラメータはマックスだからどんなことでもご主人さまと一緒なら怖くない、みたいな乱暴な話でないことも、それでいて「ご主人さまへの信頼はこういうもので、仲間への信頼は、涼花さんへの信頼は~」みたいな知った風な説明に淫したりしないところも好ましい。

 信頼なんて、突き詰めれば根拠のない、あやふやで身体的な感覚だと思う。そういうふわりとしたものを、ドライヤーから吹き付ける暖かな風の騒がしさを通して、たしかなものとして感じさせてくれるテキストがありがたい。


 あと、たとえばこうした夜の帰り道の会話の形などもさりげなく印象深いものだった。

レモン「ご主人さま、ライムと遊んでないで早く行きましょ」
ミカン「お腹すいたー」
夏樹「その前に、材料が足りないから、ちょっと買い物をしていこう」
ミカン「ミカン、荷物持ちするーっ!」
夏樹「ありがと」
ミカン「にゃふぅ~♪」
頭をなでなですると、ミカンは気持ちよさそうに目を細めた。
ライム「……ライムも荷物持ちをします」
レモン「れ、レモンもっ!」

 ライムさんが夏樹さんにじゃれかかって、レモンさんがはやく行きましょって急かす。ミカンさんがお腹がすいたーと同調して、さっき決めた晩ご飯のメニューのために寄り道しなきゃと夏樹さんが言う。ミカンさんがお手伝いするよって元気よく手を挙げて褒められたら、それを見たライムさんもレモンさんも、ミカンだけずるい!とばかりに自分たちも手を挙げて。

 四人で歩きながら帰っている時、誰が誰と話しているかはくるくると入れ替わる。会議室でテーブルを囲んで話してるとかじゃないんで、互いが互いを全員視界に収めながら喋ってるわけじゃないことも、そうした会話の形に関係していたことだろう。

 視線の向きや距離や歩き方といった空間的な事情に影響されてころころと転がる会話という気まぐれな生き物は、いかにも捉えがたく、だからこそ魅力的でもある。



  1. たとえば第二部においてミカンさん達が抱いた「とある感情」が昇華されたきっかけは、お説教でも自己反省でもなく、とある事件が彼女たちをびっくりさせて別の感情を揺り覚ましたことであった。そこでは感情とはべつだんコントロールするべきものとして扱われてはいないよね、と言うことができよう。