CUE! / エピソード"廻る日の1ページ"


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©Liber Entertainment Inc.

 前置きとして、少しだけ「未来」についての話をしておきたい。



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©Liber Entertainment Inc.("カレイドスコープ"より)

 本作のお話を読み進めると、陽菜さん達が本番のお芝居をする場面が、ストーリー中で綺麗に避けられていることに気付く1。 けれど本来、お話をドラマティックに盛り上げる上で、お芝居の場面は大事なハイライトのはずだ。 いい芝居をして成功したり、悪い芝居をして失敗したりする場面は、バトル漫画で言うところの戦闘シーンのようなものなのだから。

 多くのバトル漫画では、勝敗を分けた理由(例:ノーカラテ・ノーニンジャ)が何だったかが語られる。 同様に、お芝居の場面でも仲間との絆とか、役柄への深い共感とか、豊かな人生経験とか、あるいは特異な才能とか……そういった何かしら「いい芝居をするための条件」があって、それを持ってれば成功するし、持ってなければ失敗する……そんなナラティブが登場人物の気持ちや行動を駆動していく2のが、王道正道の作劇であろう。 だけど本作はお芝居をする場面を直接ストーリー的に描写することをしないし3、もっと言えば「いい芝居をすること」そのものを物語として語ることを、ストイックなまでに避け続けているように思われる。

 "廻る日の1ページ"と同時期に実装されたメインストーリーSeason1.2 "カレイドスコープ"は、オーディションを軸にしつつ、「10年後」にまつわる印象深い語りがあらわれるエピソードでもあった。でもこのエピソードでも、オーディションの場面は描写されないし、彼女達が10年後の未来にどんな風になっているかが示唆されることもない。そしてオーディションの場面がないことと、未来の示唆がないことは、繋がっている話なんじゃないか。

 「いい声優であるための条件」が描かれてる物語では、その条件を満たしている人物は将来いい声優になるだろうと予期できる。 例えば他人と深く濃い絆を結んだ人間がいい声優になれるのなら、きっと陽菜さん達はその条件を満たしているだろう。

 でもそういう「いい声優の条件」なんてものがどこにもないのなら、未来の予想だって不可能だ。だからCUE!の物語が彼女達の今この瞬間に寄り添い続けることしかしないのは、至極正しい道理なのだろう。……だけど、では陽菜さんの見つめているという「未来」とは、どんな色、どんな形をしたものなのだろうかと。


陽菜「うん……。あのね、志穂ちゃん、旅行は楽しいの。」
「お父さんとお母さんと、こうやって出かけるのも久しぶりだし……。」
「でも、ふとした時に気になっちゃうっていうか……。」
志穂「はあ……、仕方ないな。それなら陽菜に課題を出そう。」
陽菜「課題?」
志穂「この旅行で1番綺麗な物を見つけろ。帰ってきたら私に見せてくれ。」

 慌ただしい夏の日々のさなかに、ふとご両親と静かな海辺に旅行する時間ができたとして、 そのとき自分がいま何をしたらいいのか迷い混乱してしまうのは、無理からぬことというよりはいっそ自然なことであるように感じられる。

 そのとき志穂さんのアドバイスを受けて、自分の頭の中のやらなきゃいけないこと、しようとしていたことの間を彷徨っていた陽菜さんの視線が、外へと向けられる。

陽菜「……空。高いなあ。こんなに、高くて……、青かったんだね。」
「……ん? 風鈴……? あのお家かな。」
「……涼しい音。あの風鈴、かわいいなあ。」
「風鈴の中で……、金魚が泳いでる。風で、ゆらゆら揺れて……。」
「……うん。これも。」

 ただ、ここで陽菜さんがしていることは、多分志穂さんのイメージしていた「綺麗な物探し」とはちょっとだけニュアンスが違う。

 この時のLive2Dの細かな動きを追うと、陽菜さんの目線が、この静かな場所を取り巻く様々なものの間をゆらゆらとうつろっているのが見える。 だけど本当は、綺麗な物をつかまえるには、一度視線を動かすのを止めなければならない。絵を描いたり写真を撮るのには足場を固めて観察することが必要で、もともと志穂さん(彼女は絵を描く人間だ)が最初に陽菜さんにさせようとしていたのは、そういう散歩だったのではなかろうか。

 そしてそんな風に揺蕩っていた視線が、ひまわり畑で、自分がいまいる現在地がどこだったかを思い出す。 多分それが、ようやく陽菜さんがひとつの足場を見出した、ということであって。足場があってこそ、ひとは何かを見つめることができるようになる。


陽菜「……わたし、ちょっとは、変われた?」
「……もし、本当にそうなら。それはきっと、わたしの力だけじゃなくて……。」
「今日みたいに……。」
「……そうだ。お土産……。ひまわりはどうかな。」
「それで、帰ったら、みんなに……。」
「……帰ったら、か。ふふ。」
「わたしの帰る場所は……、うん。」
「あの頃のわたし、未来ばっかり見つめてた。」
「……ううん、今も見つめてる。今よりも、もっと……、未来のわたし。」

 仲間とともに過ごす「帰る場所」を見出した陽菜さんの意識が、「未来を見つめてる」自分自身への眼差しへと向かう――その視線の動きが、このエピソードを読んでいて最も印象深いところだったように思う。

 疑いようもなく、みんなのおかげで今の陽菜さんがある。それはそうだ。けれど、仲間と過ごす時間そのものが陽菜さんを未来へと連れて行ってくれるわけではないことも確かだ。 陽菜さんの未来は陽菜さんだけのもので、そこへと続く道も、陽菜さん自身が歩いていかなければならないものだ。

 そしてその先にある未来の形は、具体的に語られることはない……というか、できない。 陽菜さん自身、一年後、十年後の自分がどうなってるかなんて、はっきりと思い描けているわけじゃないだろう。それは一年前もそうだったし、今もそうだ。 「未来を見つめてる」というのは「未来を思い描く」ことと同じではないんです。

 志穂さん達に持ち帰るべき「1番綺麗な物」を見つけるという課題を出された陽菜さんだったけど、彼女のまなざす「未来のわたし」は写真に撮れない、言葉で書き表せるわけでもない、志穂さん達とは本当の意味では共有できない景色だった4

 けれどそこに孤独感なんてものは欠片もなくて、なぜだろう、ただ佳きことだなあ、という思いだけがある。 あるいはそれは、"潮騒スナップ"でも陽菜さんのことを眩しげな目で見ていた志穂さんと、きっとよく似た気持ちなのではなかっただろうか。

 志穂さんは、陽菜さんがなにに悩み、なにに躊躇うかを割としっかりと理解している。 だけどそれでいて志穂さんには予想できないような何かを見出してくるのが陽菜さんであって、そしてきっと志穂さんは、そういうところをこそ眩しく感じているのだろうから。



  1. オーディションパートや収録パートで芝居をする場面を見ること自体は可能ではあるのだけれど、そこで提示される演技の良し悪しの判定基準はシンプルに「ゲーム内スコアをどれだけ稼いだか」に限られる。

  2. ちなみにこの「いい芝居の条件」は必ずしも単一である必要はない。例えば主人公が絆の力を信じて前に進む、その過程が重要なのであって、絆以外の力で成功する人物がいても構わない。また、「人それぞれにいい芝居の定義がある」という言明も、それはそれで立派なナラティブであろう。

  3. 筆者が把握している限りで唯一の例外は"Airing & Feeling"の朗読劇であろうか。ただしあれは顔を出しながらの朗読なので、裏方としてキャラクターに魂を吹き込む演技とは同列に語れない気もしている。実際、演者と登場人物の境界が曖昧になった上でのぐちゃぐちゃぶりが、"Airing & Feeling"のエピソードの核でもあった。

  4. もっと言えばそれは、画面のこちら側にいる読者にさえも見ることがかなわない景色だ。開花絵は、御前崎灯台の風景でも仲間達の姿でも未来でもなく、いま現在の陽菜さん自身を真正面から捉えた構図になっている。