アメサラサ、霖さんルート

 学校や身の回りの場所を歩きまわることの描かれ方が、まずは印象深いはなしだったように思う。

"全ての授業が終わり、教師が去って行くと賑やかな放課後が訪れる。
でも、俺にとっての放課後は賑やか……というのとはまた違う気がする。
なんとなく居場所がないっていうか――
晴市(でもそれは、俺だけの、俺が勝手に感じてることだよな)"

 教室、廊下、部室棟と、所在なさげに晴市くんは学校をうろつくのだけれど、晴市くんのそれは単に居場所がなかったり、空虚であったりするのとは少し違っているのだとも思っていて。

旅人じゃなくて

"坂道を登る光羽の影に気づくのは、いつだって夕日が沈むぐらいの時間だ。"
"だけど俺と同じ道を通って家路につく光羽の姿は、部屋の窓からよく見えた。
――そんなこと、本人は知らないだろうけれど。"

 視覚的な記述とか、建物の背の低くて空の高い、長閑な住宅街めいた背景は、どうも空虚さとははるか遠い。晴市くんは旅人みたいに学校の中を歩きまわってるんだけど、実際問題として晴市くんはずっとこの土地で生まれ育っていて、お隣さんの光羽さんとも仲が良いし、毎日持ってくるお弁当はお母さんの作ったもので、育ち盛りだから量は多い。ちなみにお母さんは北都南ボイスだ(それは関係ない)。土地の語られ方についても面白くて、商店街や住宅街、学校の周りと、どの場所も晴市くんにとっては馴染み深いものではあるのだけれど、それらが町だとかその地方だとかの何かしらの「全体」の中に位置づけられるわけではない。
 晴市くんはけして根のないひととして風景を眺めているわけではなくて、学校にも通学路にも商店街にもどこにも、彼の過ごしてきた時間は刻まれているのに、けれどなぜかぼんやりと彷徨っている。

霖さんのこと

 そうした、なんて言えばいいか、戸惑いのようなものが、霖さんと晴市くんが学校の中を歩きまわるうちに、なんだかいつの間にか消え去っていた。あてどなく歩きまわってるのは同じことのはずなのに、何が違うのかって不思議な話よね、でも事実としてそうだった。
 晴市くんの前に突然現れた霖さんという人については、まず第一印象として安玖深音さん演じる声が非常によかったように思う。彼女はよく"〜ねえ"*1っていう喋り方をするのだけれど、その声の調子が非常に好きで。

"霖「晴れてるねえ」
晴市「うん。いい天気だ」
千代川が微笑む横顔を見てると、なんだか不思議な気分だった。
自分の中の嫌なものを忘れられる。
「なんでだろ」
(…)
風の音、木々の揺れる音、皆の喋り声の狭間。ふいに誰かが走っている足音が聞こえた。
嫌な予感がした。
(…)
晴市「逃げるぞ、千代川」
霖「えっ……はるいちく……わあっ!」
俺は千代川の方へと振り返り、その手を握って走り出した。
「は、晴市君?」
晴市「いいから走れ! 逃げるぞ!!」"

 晴れてるね、というのは同意を求める問いかけの言葉だけれど、晴れてるねえ、っていうのはむしろ問いかけへの返答にも使われるような言葉だ。他の言い方をすると、相手も自分と同じように、晴れてるね、と思ってるということを前提としてる言葉というかね。だからここでは、霖さんの言葉によって、晴市くんが空が澄み渡っていることをよろこんでいるという事実が、遡行的に見出されている、とも言える。
 それで、こんな風に晴市くんの方で霖さんの手を引いて学校中追いかけっこするような成り行きもあったし、時には霖さんの方から手を引くようなときもあってなんとも楽しかったんだけど、その成り行きについて後から教えてもらったことには、実は、晴市くんの側には、これまでもずっと霖さんが居たんだと。
 晴市くんがあることを思い出した時、そのことが教えられて、そしてどうしてか神秘的な事情によって、二人は隔てられてしまいそうになるのだけれど。そのことが、思い出したことで失ってしまう、という因果として語られる。

呪術

霧「貴方はずっと覚えていた。まるで大事なものののように厳重に鍵をかけた箱にとじこめて……あの日のことを忘れなかった」
晴市「――!!」
霧「糸が繋がったまま、異なる世界に住む貴方と霖はずっと寄り添って歩いていたのよ」"

 思い出したからこそ失ってしまうとか、思い出さないように閉じ込められていたからこそ忘れなかった、というのはある種逆説的にも聞こえる話でもあるけれど、どうにも真に迫った切実さを含んでもいる。
 作中には、晴市くんが銀河鉄道の夜という作品によせて「この本には"何かを失う怖さ"が描かれている」という文章を書き、霖さんがそれを読む、という場面がある。失うのが怖いものは、触れてしまえば壊れてしまいそうなものは、小さな箱に閉じ込めて、鍵をかけて仕舞っておかなければならない。怖さ臆病さというのはそういう、呪術めいた気持ちなのだと思うので。


積み重なるもの

"もうちょっと一緒にいたい。このままじゃあなと帰ってしまったら、俺はまた同じ時間を過ごしてしまう。
晴市(それはいやだな)
千代川のことを綺麗だと思ったことも、まったく忘れたりして、同じ夜と朝を迎えて――同じ毎日に戻っちゃうんだ。
「散歩……じゃないな、えっとなんていうか……」
一言ですむことだ。
もうちょっと一緒にいたいんだ。"

 商店街に通学路に学校に、過ごした日々は積み重なってゆくものだとして、そのとき積み重ねられてゆくものとは、日々の出来事を記した日記のページというよりは、においや光や思いのような、もっと淡くうつろうものだと思われる。
 晴市くんたちが歩き回るとき、その淡く貴重なものを積み重ねているのか、それとも掘り返して探しているのか、あるいは見つけたいのか、それとも鍵を掛けて仕舞っておきたいのか――そのありようはけして一義的ではないのだろうけれど、それが晴市くんや霖さんの心と分かちがたく結びついていることだけは確かで、だからこそ物語の最後に置かれた、二人が夏休みの学校の教室や廊下、図書室を歩きまわる、あの成り行きがあったのだろうと思っている。

"俺と霖が行く場所は、俺と霖が出会って、いろいろな時間を過ごした場所。学園だ。今はもう、夏休みに入っているけれど。"

*1:「え」であって「ぇ」ではない、というところが大事です