世界と世界の真ん中で

 Celestial globe of your heart. という副題が実はえらく気に入っています。


"美紀「みんなで、大掃除をしましょう!」
愛良「……大掃除?」
中「掃除って、ここを?」
美紀「そう、あたしたちの『エルデシュ』を♪」"

 やはりこう、最初の、このお掃除のシーンで心掴まれた感があります。
 別段、掃除をすることにことさら大事な何かなり意味なりがあるわけではない。それはしないならしないでもいいことで。
 でも小々路さんという、新しい寮生にして連理さんの妹を迎えるにあたって、みんなで体動かして寮のお掃除をして、綺麗になったねって思いあうのってただ単に楽しいことで、あとやっぱりこのウッドデッキに面しているダイニングの、青空青山が見えて光が差し込んでる感じ、いいなと思うのね。巣穴ではなく光射す場所として寮はあるから、そのお掃除もどちらかと言えばレクリエーションに似たものになる。お掃除が一段落したらダイニングに集まって、大皿に乗ったおにぎりをみんなでいただくのも楽しげだ。
*1

"小々路「お兄ちゃんの優しさは、病院の時と何も変わることはありませんでした」
「とても嬉しい事なんです、けど……ずっと気を遣ってもらったままで」
「それってちゃんとした兄妹になれていない、ってことですよね」"
"美紀「でも小々路ちゃんは退院したばかりなんだし、連理が気を配るのは当たり前のことだよ」
「それに連理の面倒見の良さは天然だからね、何も小々路ちゃんだけに向けられたものじゃないわ」
「でなきゃ『エルデシュのお母さん』なんて名前、つけられないと思わない?」
小々路「あ……」
美紀「あたしには小々路ちゃんと連理は仲のいい兄妹に見えるよ」
「だから結論。小々路ちゃんは何も不安になる必要なし、ってことね」"

 で、ここでの美紀さんの話し方がまた好きなんだよね。
 連理さんに気を遣われてることについて小々路さんはせつなく思っているのだけれど、美紀さんはそれを別段否定するわけではなくってさ。彼女はただ、それは当たり前だし、二人は仲のいい兄妹に見えるよ、とだけを言う。小々路さんのお部屋を訪ねて、あけひろげに悩みを聞いて、だけどそこで美紀さんが小々路さんに伝えるのは、どうすべき、でもなく、どうあるべき、でもなく、それでよいと思うよ、ということだけ。ここでなされてるのは別段なにか特別な会話でもないし、小々路さんの悩みも些細といえば些細なのだろうけれども、そういうものを丁寧に描いている。

"美紀「奇しくも『エルデシュ』女性メンバー全員集合ってわけだ」
美紀さんはお菓子と飲み物を用意すると、ベッドでクッションを抱きしめながらお話体勢をとった。"

"小々路「そうですね……」
今まで、自分の『望み』なんて考えたこともなかった。
だからこそ、こんなふうにみんなで仲良く暮らせて来れたんだと私も思う。
美紀「……あぁ〜〜! もうっ、何なのこれっ!」
「夜もいい感じに更けてさ、年頃の女の子3人が集まってるのよ?」
「なのに、どうしてこんなに色気のない会話しちゃってるわけ?」"

 んで、お互いの部屋訪ねてお話する、といって印象的なのはやはり、小々路さんルートの一幕であったと思う。
 ここで美紀さんは、小々路さんと愛良さんと美紀さん自身の三人ことを、女性メンバー全員と呼んでいる。何というのかなあ、記憶というのは、近代的な人間観においてはとてもfundamentalなものだ。でも、天球儀の世界は重力のない星々の世界であり、そこに暮らすのは大地に立つ生き物ではなく、星空を彷徨う魂だから、その議論は半分は成り立たない。星空の魂にとっての記憶は、もちろん大事なものであるにしても、それの持つ意味は地上のそれとは違う。
 夜更けに、美紀さんの部屋に示し合わせるでもなく集まったことも、そこで女の子同士の話をあれこれとしたことも、地に足の着いた優しい出来事として丁寧に描かれるのに、けれど実はそれらは半歩だけ、どこか死者の国めいた、星空の領域に踏み出したような場所で交わされている出来事でもある。彼女たちには、星空をめぐる魂としてのこころの在りようがあって、それはある意味では、何気ない暮らしを丁寧に送ってゆくこころの形とは相容れないのだけれど、けれどそれでもその二つは、確かにいまここに共に在る――この奇妙なアンビバレンスが、この作品一流の感覚だろうと思う。



 地上的な出来事についての語りくちは誠実で悪趣味さがないと同時に、容赦もない。喪われたものは還らず、莉理さんのイノセントさは去り、美紀さんのリボンは解かれ、そのことについて殊更に感情的なフォローやオブラート的なものが入るでもない。小々路さんルートのエンディングムービーの前後の場面の間では少し時間が飛んでいるのだけれど、それは冷たくもあり、正しくもある。なんとなれば、その時間に起きたこと、地上的な出来事は、この物語においては既に「終わったこと」でしかなかったからだ。
 (5/1追記: 補足しておくと、ここで大事なのは、どこかにいる三人称の神様がそういう語り方をしているというのではなくて、主な視点人物たる連理さんや、あるいは下記の場面でいえば美紀さんがそのように思いなしている、ということだ。喪われたものへの悲しみが無いわけでは無論ないのだけれど、地上を離れた魂の在りようにとってはそれはやはり「終わってしまったこと」なのであり、そのこころの形は結局のところ、地上的な価値観とはずれた場所にあるものなのだ、と思われるのである。むろん先ほど述べたよう、そうした天上的な魂のありようだけが連理さんを形作っているわけではなくて、そうではないこころの形もまた連理さんの中には共在しているのだけれど。)
 そうしたことが、悲しみや痛みをことさらに強調するのではない、静かな語り口でもって描かれる。

"あたしたちはいつも一緒で……それでいていつも離れていた。
同じところから違うところを見て、違う時間と記憶を持って……"

 懸隔があることを、悲しいことだとは思いなさず、むしろそのことを優しく受け入れ丁寧に営まれる日々があったればこそ、この場面での美紀さん達のやり取りがあった。誰よりも近いひとについて、このような語り方がなされる、その柔らかで冷たい春風のようなトーンは、天球儀の世界の持つ大事な色合いの一つであっただろうと思う。
 


 優しい悲しさとか、地上的なものと天上的なものとか、そういうこの作品にあるアンビバレントさについては、遥さんの「本物だよ。でも幻みたいなものなの」という言葉がしっくりとはまる気がしている。
 いやもう、なんとも変で、そして魅力的な作品でした。

*1:この場面の変奏のように現れる、美紀さんルートでの二人のお掃除の場面も好き。一枚絵がとてもよいです