花色ヘプタグラム(1)

"本当に気持ちよさそうにそよそよと来る風をあびて、それからまた雑草取りや虫取りを始める。
丁寧に葉1枚1枚見ていく。
本当に大切に育てているんだというのが分かる。
その様子が、いつもと変わらない。
久也「いずきって暑くないの?」
(…)
いずき「いえ……汗っかきなの、やっぱり恥ずかしいです」
「でも……暑いの好きなんです」
いずきは眩しそうに手をかざしながら空を見上げる。
「この強い陽射しも好きなんです」
久也「七華と同じだね」
いずき「はい。七華と同じです。お日様が強くなるこの時期は大好きなんです」
本当に大好きなんだろう。
花が開いたような笑顔を向けてくる。"

 夏の陽射しは、熱く強く眩しく、あまねく降り注いでいる。光を栄養として空へと伸びる草花のように、夏の陽射しの熱を、厭うことなくただよろこびとして受けることができたなら、それはつまり生命と世界とを、どこまでもまっすぐに愛せるということなのではないか。だから、そうして"花が開いた"ように笑ういずきさんは、ひどく貴い。


そして実際、このやり取りのあった、夏休みのとある猛暑日のできごとは、どれもこれも実に眩しいのである。
 暑さで目が醒めたら、旅館の部屋のつけっぱなしのテレビが猛暑日を告げていた。幼馴染でその旅館の娘の玉美さんが朝風呂に入ってのぼせてしまったので、ちょうどクーラーを効かせていた久也さんの部屋を使って、明日香さんが介抱することになった。玉美さんの代わりに学園の真乎先輩にレモネードを届けに行って、先述の会話を交わしたりした後に戻ってきて、旅館のお風呂で汗を流したのがお昼前。同じくお風呂に入ってたいずきさんと待ち合わせて部屋に戻ったら、涼んで寝てる御湯利さんや玉美さん、本を読む明日香さん、ゲームをしてる真乎先輩と、皆してさして広くもない旅館の一室に集まっていて。


 暑い外と涼しい中を行き来する運動の鮮やかさとか、なりゆきとクーラーのご利益によって皆の集まった久也さんの部屋に、あるじが帰ってくるのが一番最後であるということだとか、いずきさんによる流しそうめんのお誘いが強引ではないところとか、旅館と学校の間にある外に面した渡り廊下という空間の素敵さ*1とか、他にも好きなところは無数にある。けれども、かように何気ない夏の日の出来事をとりとめもなく、けして特別ではないこととして綴るので、それらに対してことさらに言いたてるのも、何やら無粋なことにも思われてくる。

"玉美「去年もやってたよね、真乎先輩」
真乎「素麺と言えばこれだからな」
いずき「みなさん、お待たせしました」
いずきが縁側の部屋からやってきた。
沢山の素麺を盛った皿を縁側に置く。
薬味を入れた小皿にめんつゆを入れる器と、すでに用意が出来ている。"

 何はともあれ、真夏日は眩しく、それを一心に楽しめることはなお眩しい。ともかくそれに尽きるものであるかなあ。

*1:いやほんと、めっちゃ良いと思います。午前中に暑すぎてぼーっとしてる玉美さんや御湯利さんを見つけたりとか、日が落ちた後に星を眺めながらスイカ食べるのとか、いかにもこういう、あわいにある空間ならではの魅力たっぷりで。

夏雪

"だから、お姉ちゃんと自分を呼ぶのも当然なのかもしれない。
なのにどうして、当たり前のはずのその言葉に衝撃を受けているのだろう。
とろけるような、むずがゆいような、とにかくそんな心騒がす甘やかな響きに。"

"夏雪「ありがと。私も葛ちゃんのこと、大好きだよ。ずっとずっと、大好きだった」
葛「それって……僕と会う前から?」
夏雪「うん……どうしてかな。葛ちゃんは、きっとこんな風に可愛くていい子だって思ってたの」
こそばゆくなるような言葉を、訥々と語る夏雪。
「葛ちゃんと違って、私は葛ちゃんが遠くで暮らしていることを知ってたの」
「だからかな……小さな頃から、どんな子だろう、こんな子だったらいいなって、ずっと頭の中で想像してたの。空想上の葛ちゃん……っていうのかな」"

 葛くんにとって夏雪さんは他の何でもなく"夏ねーちゃん"であって、夏雪さんにとって葛くんは"葛ちゃん"でしかありえず、姉とか弟とか大切な人とか愛しい人とかそういうのはぜんぶ後からくっつけた言葉に過ぎない以上、この日の鮮やか甘やかで焦がれるほど眩しかったできごとについても、あれこれの言葉を排してただ「夏雪さんと葛くんが出会った日」としか言い様がなかったように思われる。
 けれど夏雪さんはずっとずっと前から葛くんのことを空想の中で思い描いていて、葛くんもまた年賀状を受け取ったときから見知らぬ従姉のことを思っていたのだから、ほんとうはもっと前から二人は会っていた、とも言えるのか、言えないのか。

"この先。
夏は、何度でもやってくる。"

 唐突に、散文的におかれたこの一言は、けれどどうにも、奇妙に深い印象を残す。
 実際、この作品はいくどとなく巡り来る夏を描いているのだけれど、寄せては返す波のような、その繰り返す夏の訪れの中では、あの時あれがあったから、などといった因果の糸は、ただ曖昧なまどろみの中に溶けてゆくしかないのかもしれない。
 かつてあった神様の男と人間の女の因果が、どうしてか今このとき葛くんと夏雪さんのもとにやって来たことは、何故ともいかにしてとも言いかねることではあった。そのことについて、順序立てて整理するだとか、向かい合って片を付けるだとか、そんな風なことにはならなくて、それはただ夏の湿った宵闇の中に、夢幻めいて唐突に訪れ、そして唐突に去ってゆく。
 変わりゆく町の姿も、過去の因果も、葛くんや夏雪さんに何をどうできるようなことであるわけもないのだが、それでもただ「それ」が過ぎ去っていった手触りだけは、どうにも手のひらの中に残っている。夏っていうのはそんな風に、うんざりするほどに確かにそこに"在る"くせに、どうあっても手のひらに掴むことのできないような季節であるように思う。
 そのとらえどころのないものは、葛くんのにも、夏雪さんのものにもならないのだけれども、それでもその寄せては返す夏の中で、ふたりは確かに互いを求め合って、強く互いを結びつけあっていた/いる。そしてそれ以外のことは、なんとも言い様がない。

"葛「んなわけないけど……夏ねーちゃんは優等生なのに……」
夏雪「それは心外だねぇ……私、真面目なんかじゃないよ?」
「学園は好きだから行ってるだけで……」
葛「そうだったの……?」
夏雪「うん……それに本当に真面目だったら……葛ちゃんのことを好きになってないよ」
葛「じゃ、俺たちは不真面目姉弟ってことか……」
夏雪「そうだねぇ……ふふふっ……」
少しだけ、気持ちが楽になった。
俺は何度、この微笑みに癒されてきたんだろう?"

 葛くんの抱える異様なものへの不安が、葛くんが謹慎させられていることを気遣う夏雪さんによって慰められるというのは、少しずれた成り行きではある。けれどもほんとうに、ただ夏の静かな浜辺にふたり散歩に出かけることだけが美しく愛おしく、それ以外のことは別段なんでもないことだ、どんな経緯も理由も。浜辺を訪れることは、これまで過ごしてきた夏と同じく繰り返してきたことであるけれど、もちろん違うところもあって、でもどこが違ってどこが同じで、などといったことを問うことにはさほどの意味もないというのも、同じことだ。

"夏雪「どうしたの? ……急に元気がなくなったけど……」
葛「げ、元気だよっ」
夏雪「ならいいけど……」
どうして、あんな……。
海へ入っていく後姿を見たとき、俺は永遠に夏ねーちゃんと会えなくなるような予感がした。"

 それで、ほんとこう、こうした、ふと胸をよぎるなにか、を描くのが鮮やかなのよね。リーダの多い言葉とか、丁寧な情景描写なんかがそれを支えているのかな。強烈。

夏空カナタ

"茅羽耶「ううん、朝倉さんっていい人だと思って」
壮太「俺が?」
茅羽耶「私、よそから引っ越してきたので、いまいちこの島に馴染めてないような気がして」
壮太「そうかな?」
茅羽耶「今日なんて知っている人に話しかけても、妙によそよそしくされた気がするんです」
「前までは普通にしてくれてたのに……嫌われるようなことした覚えもないのになぁ」
壮太「上坂さんの気のせいじゃないかな?」
茅羽耶「かもしれません。でもね、朝倉さんが優しいことには変わりませんよ」"

 「いい人」っていうのは抽象的な言葉だからこそ、どう「いい人」なのか明言を避けたい時に便利に使われたりもするわけだけれど、茅羽耶さんの「いい人」っていう言葉の使い方は、そういうのとは違っていてさ。茅羽耶さんはこの時、自身が壮太くんに対して抱いた好感を表す言葉として、ただ素直に「いい人」という言葉を用いている。二人はまだ知り合って二日目で、互いのことを大して知っているわけでもないから、具体的に壮太くんがどういう人だともさまで言えるわけでもない中で、その言葉が選ばれたことは、不自然なことではないのだけれども、ただ、そこで茅羽耶さんに「いい人」って言葉を使うことに衒いがないのは、茅羽耶さんがその抽象的な、いい人、という概念を信じているからなのだろう、とも思うので。

 全くの「いい人」「悪い人」なんて居ない――そういうしゃらくさい分別など投げ捨てるような茅羽耶さんのまっすぐさは清潔で、見ていてほんと眩しいところです。壮太くんも壮太くんで一本気なのだけれど、彼にはどことなしchaotic goodっぽい所があるのと比べると、茅羽耶さんはneutral goodっぽいのだよね。
 壮太くんも茅羽耶さんもどちらも心根のよいひとなのだけれども、それぞれの抱えてる善性は実は方向性が違っていて、だからこそお互いがお互いにとってどこか眩しい存在に見えている、というのは、二人の関係を見る時、特にこそばゆいところです。

"茅羽耶「朝倉さん……私、朝倉さんのことが好きです……凄く、好きなんです」
壮太「俺だってそうだよ」
茅羽耶「あはは……嬉しいです」"

 ほんと茅羽耶さんはまっすぐな人でね。そこで選ぶ言葉がそれなんだなあ、と感じ入ったのでした。

世界と世界の真ん中で

 Celestial globe of your heart. という副題が実はえらく気に入っています。


"美紀「みんなで、大掃除をしましょう!」
愛良「……大掃除?」
中「掃除って、ここを?」
美紀「そう、あたしたちの『エルデシュ』を♪」"

 やはりこう、最初の、このお掃除のシーンで心掴まれた感があります。
 別段、掃除をすることにことさら大事な何かなり意味なりがあるわけではない。それはしないならしないでもいいことで。
 でも小々路さんという、新しい寮生にして連理さんの妹を迎えるにあたって、みんなで体動かして寮のお掃除をして、綺麗になったねって思いあうのってただ単に楽しいことで、あとやっぱりこのウッドデッキに面しているダイニングの、青空青山が見えて光が差し込んでる感じ、いいなと思うのね。巣穴ではなく光射す場所として寮はあるから、そのお掃除もどちらかと言えばレクリエーションに似たものになる。お掃除が一段落したらダイニングに集まって、大皿に乗ったおにぎりをみんなでいただくのも楽しげだ。
*1

"小々路「お兄ちゃんの優しさは、病院の時と何も変わることはありませんでした」
「とても嬉しい事なんです、けど……ずっと気を遣ってもらったままで」
「それってちゃんとした兄妹になれていない、ってことですよね」"
"美紀「でも小々路ちゃんは退院したばかりなんだし、連理が気を配るのは当たり前のことだよ」
「それに連理の面倒見の良さは天然だからね、何も小々路ちゃんだけに向けられたものじゃないわ」
「でなきゃ『エルデシュのお母さん』なんて名前、つけられないと思わない?」
小々路「あ……」
美紀「あたしには小々路ちゃんと連理は仲のいい兄妹に見えるよ」
「だから結論。小々路ちゃんは何も不安になる必要なし、ってことね」"

 で、ここでの美紀さんの話し方がまた好きなんだよね。
 連理さんに気を遣われてることについて小々路さんはせつなく思っているのだけれど、美紀さんはそれを別段否定するわけではなくってさ。彼女はただ、それは当たり前だし、二人は仲のいい兄妹に見えるよ、とだけを言う。小々路さんのお部屋を訪ねて、あけひろげに悩みを聞いて、だけどそこで美紀さんが小々路さんに伝えるのは、どうすべき、でもなく、どうあるべき、でもなく、それでよいと思うよ、ということだけ。ここでなされてるのは別段なにか特別な会話でもないし、小々路さんの悩みも些細といえば些細なのだろうけれども、そういうものを丁寧に描いている。

"美紀「奇しくも『エルデシュ』女性メンバー全員集合ってわけだ」
美紀さんはお菓子と飲み物を用意すると、ベッドでクッションを抱きしめながらお話体勢をとった。"

"小々路「そうですね……」
今まで、自分の『望み』なんて考えたこともなかった。
だからこそ、こんなふうにみんなで仲良く暮らせて来れたんだと私も思う。
美紀「……あぁ〜〜! もうっ、何なのこれっ!」
「夜もいい感じに更けてさ、年頃の女の子3人が集まってるのよ?」
「なのに、どうしてこんなに色気のない会話しちゃってるわけ?」"

 んで、お互いの部屋訪ねてお話する、といって印象的なのはやはり、小々路さんルートの一幕であったと思う。
 ここで美紀さんは、小々路さんと愛良さんと美紀さん自身の三人ことを、女性メンバー全員と呼んでいる。何というのかなあ、記憶というのは、近代的な人間観においてはとてもfundamentalなものだ。でも、天球儀の世界は重力のない星々の世界であり、そこに暮らすのは大地に立つ生き物ではなく、星空を彷徨う魂だから、その議論は半分は成り立たない。星空の魂にとっての記憶は、もちろん大事なものであるにしても、それの持つ意味は地上のそれとは違う。
 夜更けに、美紀さんの部屋に示し合わせるでもなく集まったことも、そこで女の子同士の話をあれこれとしたことも、地に足の着いた優しい出来事として丁寧に描かれるのに、けれど実はそれらは半歩だけ、どこか死者の国めいた、星空の領域に踏み出したような場所で交わされている出来事でもある。彼女たちには、星空をめぐる魂としてのこころの在りようがあって、それはある意味では、何気ない暮らしを丁寧に送ってゆくこころの形とは相容れないのだけれど、けれどそれでもその二つは、確かにいまここに共に在る――この奇妙なアンビバレンスが、この作品一流の感覚だろうと思う。



 地上的な出来事についての語りくちは誠実で悪趣味さがないと同時に、容赦もない。喪われたものは還らず、莉理さんのイノセントさは去り、美紀さんのリボンは解かれ、そのことについて殊更に感情的なフォローやオブラート的なものが入るでもない。小々路さんルートのエンディングムービーの前後の場面の間では少し時間が飛んでいるのだけれど、それは冷たくもあり、正しくもある。なんとなれば、その時間に起きたこと、地上的な出来事は、この物語においては既に「終わったこと」でしかなかったからだ。
 (5/1追記: 補足しておくと、ここで大事なのは、どこかにいる三人称の神様がそういう語り方をしているというのではなくて、主な視点人物たる連理さんや、あるいは下記の場面でいえば美紀さんがそのように思いなしている、ということだ。喪われたものへの悲しみが無いわけでは無論ないのだけれど、地上を離れた魂の在りようにとってはそれはやはり「終わってしまったこと」なのであり、そのこころの形は結局のところ、地上的な価値観とはずれた場所にあるものなのだ、と思われるのである。むろん先ほど述べたよう、そうした天上的な魂のありようだけが連理さんを形作っているわけではなくて、そうではないこころの形もまた連理さんの中には共在しているのだけれど。)
 そうしたことが、悲しみや痛みをことさらに強調するのではない、静かな語り口でもって描かれる。

"あたしたちはいつも一緒で……それでいていつも離れていた。
同じところから違うところを見て、違う時間と記憶を持って……"

 懸隔があることを、悲しいことだとは思いなさず、むしろそのことを優しく受け入れ丁寧に営まれる日々があったればこそ、この場面での美紀さん達のやり取りがあった。誰よりも近いひとについて、このような語り方がなされる、その柔らかで冷たい春風のようなトーンは、天球儀の世界の持つ大事な色合いの一つであっただろうと思う。
 


 優しい悲しさとか、地上的なものと天上的なものとか、そういうこの作品にあるアンビバレントさについては、遥さんの「本物だよ。でも幻みたいなものなの」という言葉がしっくりとはまる気がしている。
 いやもう、なんとも変で、そして魅力的な作品でした。

*1:この場面の変奏のように現れる、美紀さんルートでの二人のお掃除の場面も好き。一枚絵がとてもよいです

ヤキモチストリーム

 ヤキモチってひとくちに言ったところで、どうしたってそのありようはひと通りではないし、劇的な気持ちばかりとは限らない。自分の傍に居て欲しいとか、自分のことだけ見ていて欲しいとかって気持ちは、相手がどれほど自分の傍に居てくれそうか、見てくれそうか――そういう予想/期待と押し引きしながら、燃え上がったり、冷や水をかけられてしぼんだりするものだと思われる。
 とぼけた顔してささやかな気持ちを丁寧に描くこの作品の筆致には、好きなところ沢山ありすぎて何ともなのですが、たとえば一つ、ということで。

"ターニャ「……エディンバラで、ターニャと一緒にオヤスミナサイしたの……覚えてる?」
拓海「もちろん覚えてるぞ」
俺がホームステイを初めて、一週間くらい経った頃だっけ。
ちょっとしたきっかけがあって――
それまではあまり打ち解けてくれなかったターニャが、初めて俺を認めてくれた夜のことは忘れない。
ターニャ「……サナのお話、してクレタ
拓海「そうだったな」
あの夜も、ターニャはこんな目で俺を見てた。
ターニャ「『サナ』と、『アマエンボ』が……ターニャが初めて覚えた日本語。『コニチハ』より、先」
言われて、エディンバラでの日々を思い返す。
すごく繊細で甘えんぼなこの子に、俺も沙那を重ねて接していたのかも。
拓海「初めて会ってどうだった? 沙那」
ターニャ「アマエンボ」
即答だった。
「……ターニャと一緒。タクミが言った通りダッタ」"

 言葉の意味や定義なんてのは可塑的なもので、周りの人がその言葉を使うのを聞いたり読んだりする中で作られていくものだ。ターニャさんが初めて覚えた日本語が「サナ」と「アマエンボ」であるということは、だからとても甘やかなことでね。
 その時ターニャさんにとっての日本語の世界は、拓海さんと、アマエンボな妹のサナさんと、"サナさんと同じようにアマエンボな"ターニャさんだけで出来ていた。「アマエンボ」っていうのはその三人のためだけの特別な言葉で、辞書上の定義なんてのは知ったことではなく、ただ拓海さんが見知らぬ妹のサナさんについて語ったその語り口だけが、「アマエンボ」って言葉を定義する全てだった。

 痛いの?って聞かれて初めて泣き出す子供、なんて例を出すまでもなく、言葉は実感よりも先にある。「アマエンボ」って言葉が先にあって、拓海さんによって語られる遠い島国の甘えん坊さんの話を聞きながら、ターニャさんと拓海さんとの間柄は作られていったのだろうと思われて。だからターニャさんにとって沙那さんは、「アマエンボ」としての、いわば先輩みたいな存在だ。ターニャさんは、会ったことないサナさんという女の子の背中を想像しながら、拓海さんへのアマエンボになってったのだろうと。

 ターニャさんは沙那さんをお姉ちゃんみたいと言うのだけれど、実際にはターニャさんは拓海さんと同い年、つまり拓海さんの実妹である沙那さんよりいっこ年上なのである。それも、別にターニャさんは拓海さんがお兄ちゃんみたいとは特に言わないので、「拓海さんとターニャさんは同い年」「拓海さんは沙那さんのお兄ちゃん」「沙那さんはターニャさんのお姉ちゃん」と、何とも込み入った家族関係ということになる。でもそれが妙にしっくり来てしまうのは、例えば沙那さんがターニャさんにとって「アマエンボ」の先輩っていうのもきっとあるのだよね。なんともこそばゆい話です。



 今週末に出るVFBは非常に楽しみにしてます。椿また氏ももじゃすびい氏も全然情報がなくって、一体何者なんだ……状態なので、コメンタリーとかたくさんあるといいな。

ロリポップナイトメア!

 大事なことはいつも夜に話される、というのが好き。夜は嘘と怪物と魔法とお菓子の時間で、夜でなきゃ大事なことは話せない。そりゃそうなんです。

"麻那「魔法、ですか」
……おや。
麻那さんの目が、若干輝いて見えるのは、気のせいだろうか……?
「いいですね、魔法。素敵です。それは好きです」
「その捜し物とやら、わたしも手伝いましょうか」"

 ね。魔法、素敵ですよね。


"いつも笑っていて、心の内を見せないトウカ。
いまいちどこか信用出来ない人。
一番古くて一番気に入っている関係の相手。
麻那「多分、わたしは……トウカに甘えてるだけなんだろうな」
「……ああ、やめようこういうの」
分かってます。
トウカに甘えているから、それで彼に強く当たってしまうんですよね。
このままじゃただのメンヘラ女子です。メンヘラ麻那botです。"

"……別に、トウカが他の女の子と身体を重ねてることに怒ってるわけじゃないです。
わたしとトウカは、恋人って関係じゃあないし。独占欲なんか持っちゃいけないし。
……なんてことを思ってるのに、何故かbot化してしまうわたし。"

 独白の描き方がいちいち良いです。

 "したいと思ってしてる"わけじゃない、でも"したいと思わないのにしている"というわけでもない、かといって"何がしたいのか分からない"というわけでもない、ないない尽くしの、どう記述すればよいのか分かんない状態って、普通にあることなんだけどさ。
 そういう風になっちゃう、ということについて、何がしかの価値判断を伴う口調で語られる*1のではないのが、印象深かったのね。離人症的っていうとズレちゃうんだけど、まず「こうありたい」「何をしたい」そういうモデリングから離れて、うずくまって布団の中でまどろんで物思うような、そういう思いのありようの表れとして、bot、という言葉が選ばれたような気がしていて。


 麻那さんとファンタズマさんの二人夜歩きものトコとかとても好きなのね。魔法のお菓子とか使われたら麻那さんとしてもどーしよーもないわけで、彼女自身が語ることをことさら意志的に選んだわけではないんだけど、流されるようにして、ぽつぽつ、と、言葉が出てくるわけです。夕方よりは遅くても、真夜中というほどでもない、8時くらいの秋の浅い夜に、二人して住宅街を歩く中で、それがなされる。

 よいお話でした。

*1:いやもちろん、麻那さんが、「そうある」ことについて何も思っていない、とかそういうことではなくてね。あくまで、語りの口調の問題として

アメサラサ、霖さんルート

 学校や身の回りの場所を歩きまわることの描かれ方が、まずは印象深いはなしだったように思う。

"全ての授業が終わり、教師が去って行くと賑やかな放課後が訪れる。
でも、俺にとっての放課後は賑やか……というのとはまた違う気がする。
なんとなく居場所がないっていうか――
晴市(でもそれは、俺だけの、俺が勝手に感じてることだよな)"

 教室、廊下、部室棟と、所在なさげに晴市くんは学校をうろつくのだけれど、晴市くんのそれは単に居場所がなかったり、空虚であったりするのとは少し違っているのだとも思っていて。

旅人じゃなくて

"坂道を登る光羽の影に気づくのは、いつだって夕日が沈むぐらいの時間だ。"
"だけど俺と同じ道を通って家路につく光羽の姿は、部屋の窓からよく見えた。
――そんなこと、本人は知らないだろうけれど。"

 視覚的な記述とか、建物の背の低くて空の高い、長閑な住宅街めいた背景は、どうも空虚さとははるか遠い。晴市くんは旅人みたいに学校の中を歩きまわってるんだけど、実際問題として晴市くんはずっとこの土地で生まれ育っていて、お隣さんの光羽さんとも仲が良いし、毎日持ってくるお弁当はお母さんの作ったもので、育ち盛りだから量は多い。ちなみにお母さんは北都南ボイスだ(それは関係ない)。土地の語られ方についても面白くて、商店街や住宅街、学校の周りと、どの場所も晴市くんにとっては馴染み深いものではあるのだけれど、それらが町だとかその地方だとかの何かしらの「全体」の中に位置づけられるわけではない。
 晴市くんはけして根のないひととして風景を眺めているわけではなくて、学校にも通学路にも商店街にもどこにも、彼の過ごしてきた時間は刻まれているのに、けれどなぜかぼんやりと彷徨っている。

霖さんのこと

 そうした、なんて言えばいいか、戸惑いのようなものが、霖さんと晴市くんが学校の中を歩きまわるうちに、なんだかいつの間にか消え去っていた。あてどなく歩きまわってるのは同じことのはずなのに、何が違うのかって不思議な話よね、でも事実としてそうだった。
 晴市くんの前に突然現れた霖さんという人については、まず第一印象として安玖深音さん演じる声が非常によかったように思う。彼女はよく"〜ねえ"*1っていう喋り方をするのだけれど、その声の調子が非常に好きで。

"霖「晴れてるねえ」
晴市「うん。いい天気だ」
千代川が微笑む横顔を見てると、なんだか不思議な気分だった。
自分の中の嫌なものを忘れられる。
「なんでだろ」
(…)
風の音、木々の揺れる音、皆の喋り声の狭間。ふいに誰かが走っている足音が聞こえた。
嫌な予感がした。
(…)
晴市「逃げるぞ、千代川」
霖「えっ……はるいちく……わあっ!」
俺は千代川の方へと振り返り、その手を握って走り出した。
「は、晴市君?」
晴市「いいから走れ! 逃げるぞ!!」"

 晴れてるね、というのは同意を求める問いかけの言葉だけれど、晴れてるねえ、っていうのはむしろ問いかけへの返答にも使われるような言葉だ。他の言い方をすると、相手も自分と同じように、晴れてるね、と思ってるということを前提としてる言葉というかね。だからここでは、霖さんの言葉によって、晴市くんが空が澄み渡っていることをよろこんでいるという事実が、遡行的に見出されている、とも言える。
 それで、こんな風に晴市くんの方で霖さんの手を引いて学校中追いかけっこするような成り行きもあったし、時には霖さんの方から手を引くようなときもあってなんとも楽しかったんだけど、その成り行きについて後から教えてもらったことには、実は、晴市くんの側には、これまでもずっと霖さんが居たんだと。
 晴市くんがあることを思い出した時、そのことが教えられて、そしてどうしてか神秘的な事情によって、二人は隔てられてしまいそうになるのだけれど。そのことが、思い出したことで失ってしまう、という因果として語られる。

呪術

霧「貴方はずっと覚えていた。まるで大事なものののように厳重に鍵をかけた箱にとじこめて……あの日のことを忘れなかった」
晴市「――!!」
霧「糸が繋がったまま、異なる世界に住む貴方と霖はずっと寄り添って歩いていたのよ」"

 思い出したからこそ失ってしまうとか、思い出さないように閉じ込められていたからこそ忘れなかった、というのはある種逆説的にも聞こえる話でもあるけれど、どうにも真に迫った切実さを含んでもいる。
 作中には、晴市くんが銀河鉄道の夜という作品によせて「この本には"何かを失う怖さ"が描かれている」という文章を書き、霖さんがそれを読む、という場面がある。失うのが怖いものは、触れてしまえば壊れてしまいそうなものは、小さな箱に閉じ込めて、鍵をかけて仕舞っておかなければならない。怖さ臆病さというのはそういう、呪術めいた気持ちなのだと思うので。


積み重なるもの

"もうちょっと一緒にいたい。このままじゃあなと帰ってしまったら、俺はまた同じ時間を過ごしてしまう。
晴市(それはいやだな)
千代川のことを綺麗だと思ったことも、まったく忘れたりして、同じ夜と朝を迎えて――同じ毎日に戻っちゃうんだ。
「散歩……じゃないな、えっとなんていうか……」
一言ですむことだ。
もうちょっと一緒にいたいんだ。"

 商店街に通学路に学校に、過ごした日々は積み重なってゆくものだとして、そのとき積み重ねられてゆくものとは、日々の出来事を記した日記のページというよりは、においや光や思いのような、もっと淡くうつろうものだと思われる。
 晴市くんたちが歩き回るとき、その淡く貴重なものを積み重ねているのか、それとも掘り返して探しているのか、あるいは見つけたいのか、それとも鍵を掛けて仕舞っておきたいのか――そのありようはけして一義的ではないのだろうけれど、それが晴市くんや霖さんの心と分かちがたく結びついていることだけは確かで、だからこそ物語の最後に置かれた、二人が夏休みの学校の教室や廊下、図書室を歩きまわる、あの成り行きがあったのだろうと思っている。

"俺と霖が行く場所は、俺と霖が出会って、いろいろな時間を過ごした場所。学園だ。今はもう、夏休みに入っているけれど。"

*1:「え」であって「ぇ」ではない、というところが大事です