水坂不適合"ひきこもり姫を歌わせたいっ!"

"「君、あれでいいと思ってるの?」
桐生さんだった。
言葉に詰まる。不安は病のように、心を侵食する。だけど、やっぱりいいんだと思えたのは、俺だけの曲じゃないことに気づいたからだ。四人で作った曲なのだ。そう思うと、言葉は勝手に出ていた。
「俺は最高だって思ってます」
「そっか」
桐生さんはつまらなそうに言った。"(310, 311p)

 この言葉のキレ、ちょっとただごとではない。

 蒼山くんの中には、桐生さんに反論すべき根拠が何も無かったわけです。そこがまずしっかりしている*1。実際に桐生さんは音楽の才能や価値を見極める才覚があるのだろうし、ことさら悪意があって蒼山くんをこき下ろしているわけではないのだろうし。蒼山くんが悪者だというのも、桐生さんにとっては正論にすぎないのだろうし。

 そしてそれに対する蒼山くんの、胸の中で動くものの一瞬を、ひょいとすくい上げるこの手つきの鋭さ、精確さが凄い。

 "だけど、やっぱりいいんだと思えたのは、俺だけの曲じゃないことに気づいたからだ。"――「やっぱり」ってとこもいいし、「気づいた」って言葉の選び方も非常に正しい。何より、「俺だけの曲じゃない」ってのが先に来て、後から「四人で作った曲なのだ」っていう言葉が追っかけてくるところがいい。そう、確かにそれはその順番だよね、と。

 夜の砂浜で何があったって、別に蒼山くんの音楽の才能が育ったり覚醒したりしたわけじゃないですね。「自分」がなんかそんなすぐに変わるとか、そういう簡単な話はない。

"「自分のことは自分が一番知ってますから」"(49p)
"「自分のことは自分が一番わかってる!」"(265p)

 自分のことはよく分かってる、自分がダメだってことだけはよーく知っている。他人のことは全然分からないけど、きっとわたし/俺のことをダメだって思ってるはずだ。だってこんなにダメなんだから。
 他人の言葉が、評価が、怖くて不安だ。だというのに、自分たちの演った曲がいいんだと思えるのも、それもやっぱり「他人」のせいだった。自分のダメさはよく知ってるけど、他人のことは分からない。他人のことは、良いか悪いか分からない宙吊りのまま、空白のままになっている。だからこそ、良いんだって信じてもいいと思える余地がある。
 仲間だとか友達だからとかじゃなくて、他者だから。それを、理屈とか一ミリもこねずにきっちり描いちゃってるの、割となにごとかと思う。


 あとここも超良かったですね。

"「ありがとう。千賀がいてくれてよかった」
俺は言った。できる限りの気持ちを込めて。
(…)「それでだ。今から、スタジオで新しい曲を作りたいんだけど」
「……なるほど。それで、私に媚を売ろうってことだったわけね」
千賀はため息をつく。「いいわよ。どうせあんた、何言っても聞かないんだから」
本当は違ったのだけど、それはあとでゆっくり伝えようと思った。大丈夫。伝える時間はまだまだあるのだから。"(271p)

 千賀さんのありがたさを今更のように深く実感したからって、唐突に「ありがとう」なんて言ったところでヘンな顔をされるのが関の山だ。蒼山君の中で何かが変わったからと言って、それが光みたいにぱっと伝わるなんてことはない。でも別にそれはそういうもんで、という態度がね。クールだ。

*1:桐生さんを変にsageたりしないの偉い